このページは洋々閣のホームページの1ページです。お役に立てればうれしいです。     updated 1 January 2001
     
 
鏡山と万葉  松浦佐用姫伝説考 唐津万葉の会  岸川 龍


 このページは、岸川先生が『ポート唐津』誌に連載されたものよりの抄録です。

唐津地方に現在伝わる佐用姫伝説のかたち

 唐津に住んでいる人で松浦佐用姫(まつらさよひめ)の伝説を知らない人はまずいないだろう。日本三大伝説のひとつといわれ、愛する人との別離を悲しむあまり石となってしまったという悲恋物語は、昔も今も若い女性の同情をさそうようである。
 現在最も一般的に伝えられている佐用姫伝説は次の通りである。

 宣化天皇二年(537)大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた。狭手彦は名門大伴氏の凛々しい青年武将であった。
 物資の補給や兵の休養のため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に、狭手彦は土地の長者の娘の「佐用姫」と知り合い夫婦の契りを結んだ。佐用姫は絶世の美女であったと伝えられている。
 やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山(かがみやま)へ駆け登り、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死になって打ち振るのだった。当時、領巾を振れば、邪を払い願いがかなうと信じられていたからである。
 軍船は次第に遠ざかり小さくなっていく。狂気のようになった佐用姫は、鏡山を駆け下り栗川(くりがわ=現在の松浦川)を渡って海沿いに北へ向かって走っていき、やがて加部島(かべしま=呼子町)の天童岳の頂きに達したが、遂に舟が見えなくなると、その場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう石になってしまった。
 その石はあたかも人がうずくまった形をしていたので、人々はこれは佐用姫の化身であるにちがいないと言って手厚く弔ったということである。




肥前風土記にあらわれる佐用姫伝説のかたち

 ところで、佐用姫伝説に関する話が最も古く文献にあらわれるのは、『肥前風土記』である。
 七百十三年(和銅六年)元明天皇は、諸国の産物・地名・伝説などを書いた「風土記」を朝廷に提出するように命じた。
 当時は朝廷の支配する諸国のすべてから風土記が提出されたはずであるが、残念ながら今日完全な形で残っているのは『出雲風土記』だけだといわれている。
 一方、不完全ながら現存しているものに肥前・豊後・播磨・常陸の四か国分があり、この中の『肥前風土記』の一節に松浦佐用姫の伝説が書き記されているというわけである。
 この『肥前風土記』に書かれている佐用姫伝説と今日私たちがよく耳にする佐用姫伝説とを比べて見ると、その内容は全く同じではない。かなりの相違点が認められる。その相違点のいくつかと相違点についての考察を次に述べてみたい。

 第一の相違点は、今日伝えられている話では、狭手彦の船出を見送ったあと悲しみのあまり佐用姫は石になってしまうのであるが、『肥前風土記』には佐用姫石化の話は全然出てきていないということである。
 『風土記』では佐用姫が鏡山に登って領巾を振ったとは書いてあるが、軍船を追って海べを走り、最後は遂に石になってしまったとは書いていない。
 このことは風土記より少し遅れて成立した万葉集についても同じことが言えるのであって、奈良時代の佐用姫伝説では、佐用姫は石になどならなかったのである。
 ではいつ頃から佐用姫が石になっていくのであろうか。
 佐賀市にお住まいの万葉研究家日野一雄先生が書かれた『佐用姫伝説の研究』という本によれば、それは室町時代の初期ごろからではないかと言うことである。
 室町時代は連歌がさかんになった時代であるが、朝山師綱という人が書いた連歌書に『梵灯庵袖下集』というのがあり、その中に初めて佐用姫が石になったという表現が出てくる。
 ---船のみゆる限りはこひしたひけれどもかひなければ高き山にのぼりて袖もて招く。船かくれて後やがて石となりぬ---
とあるのがそれである。また、ほぼ同じ頃に書かれた『流布本曽我物語』(作者不詳・原作は鎌倉時代)にも
 ---かの松浦佐用姫が雲井の船を見送りて石となりけん昔を思ひ遣られて空しく坊に帰りけり---
とあり、この頃から佐用姫が悲しみのあまり石となってしまった話が広まったのではないかと考えられる。
 もともと夫を恋い慕うあまり死して石となった女の話は中国の昔話にあるということで、すでに唐代の詩人李白や王建らが『望夫石』という詩を作っているほどである。
 宋の時代になって『幽明録』という本が書かれ、その中に望夫石の故事がおさめられてからそれが我が国にも伝わり、平安末期の歌学者藤原範兼が書いた『和歌童蒙抄』という歌学書にこの幽明録の望夫石故事が次のように紹介されている。
 ---昔、貞婦ありき。夫軍にしたがひて遠く行く。婦をさなき子の手をひきて武昌の北山までおくる。夫の行をのぞみて立てり。夫かへらずなりぬ。婦立ちながら死ぬ。化して石になりぬ。かたち人の立てるがごとし。そののちその山を望夫山といふ。その石を望夫石といふ。---
 このようにしてわが国に紹介された「望夫石伝説」が「佐用姫伝説」と結びついたのではないかと考えられる。
 鎌倉時代に書かれた説話集(教訓的な話を集めた本)に『十訓抄(じっきんしょう)』や『古今著聞集』があるが、この二冊の本はいずれも中国の「望夫石伝説」と「佐用姫伝説」を並列的に配置した形で収録している。
 この時点ではこの二つの伝説は全く別のものであり、別の話として記述されているが、たまたま二つの話が並記されていたことが後世「松浦佐用姫石化伝説」を発生せしめる契機になったのであろう。
 このことは日野一雄先生や満島章子先生も指摘されているが、江戸時代の国文学者石川雅望がその著『ねざめのすさび』に
 ---はじめの望夫石の故事と混じて、ひがおぼえの人の物語せしが世にひろごりたるなるべしとおもはる---と述べていることからも推定できる。いずれにしても鎌倉から室町にかけて「佐用姫石化伝説」が形づくられていったものと考えられるのである。

 第二の相違点は『肥前風土記』には「蛇婚」の話がくっついているのに、今日われわれが聞かされている佐用姫伝説にはこの蛇婚の話がカットされているということである。
 『肥前風土記』は、狭手彦と別れたあとの佐用姫について次のように述べている。
 ---然るに弟日姫子(おとひひめこ)(佐用姫のこと)狭手彦連(むらじ)と相分かれて五日を経(ふ)るの後、人有り夜毎来たりて婦(をみな)と共に寝、暁に至りて早く帰る。容止形貌(すがたかお)、狭手彦に似たり。婦その怪(あやしみ)を抱きて忍黙(もだえ)えず、竊(ひそか)に績麻(うしを)を用いてその人の襴(ひとえ)に繋(つな)ぐ。麻に随ひて尋(と)め往(ゆ)くに此の峯の沼邊(いけのべ)に到る。
 寝たるをろち(虫扁に也という字が書いてあります)あり、身、人にして沼底に沈めり。頭はをろちにして沼壅(いけのつつみ)に臥す。忽ち人と為りて即ち謌(うたうたい)て云ふ。
 志努波羅能意登比賣能古表佐比登由母為弥弖牟志太夜伊幣爾久太佐牟也
 (しぬはらの おとひめのこを さひとゆも いねてむしたや いへにくたさむや
 
時に弟日姫子の従女(とものめ)走りて親族(うから)に告ぐ。親族衆(もろびと)を發(やりて昇りて之を看る。をろちと弟日姫子ともに亡(う)せて存(あ)らず。茲に於いて其の沼底を見るに、但(ただ)人の屍(しかばね)あり。各(おのおの)弟日姫子の骨と謂ふ。
 即ち此の峯の南に就きて墓を造り治め置く。其の墓見在(いまにあ)り。---
 この記述によると、狭手彦を見送ってから五日経った夜から、佐用姫のところに毎夜ある男が通ってくるようになった。姿かたちが狭手彦によく似ている。佐用姫は不思議に思ってそっと麻糸をその男の衣に結び付け、そのあとをたどっていくと、領巾山の山頂に出た。そこには沼があって頭が大蛇で身体は人という怪物が横たわっていた。忽ち人の姿に変わったかと思うと次のような歌をうたった。
 篠原の弟日姫子をわずか一夜でも連れてゆき寝てしまえば家に帰してやろうよ。
 佐用姫につき従ってきた下女が走って山を駆け下り家族に知らせた。家族や村の人々が急いで山頂に登ってみたが、そこにはをろちの姿も佐用姫の姿もなく、沼の底に人の屍が残っているだけだった。みんなは口々にあれは佐用姫の骨にちがいないといった。そこでこの領巾山の峯の南の方に墓を造り佐用姫の霊をなぐさめた。その墓は現在でも残っている。
 およそこんな事が『肥前風土記』には書かれているのである。
 このような話は「三輪山神婚説話」の系統に属する伝説であるが、「蛇婚伝説」は「神婚伝説」よりさらに古い原始形ではないかと、松村武雄博士は考えておられる。 (このあと三輪山伝説の考察を中略します。)
 いずれにしても、今日私たちが「佐用姫伝説」として聞かされている話では、美しい悲恋物語として伝えたいという人々の願望が長い年月の間にグロテスクな部分を捨て去り、中国の望夫石の故事と結びついて、より高揚した永遠性のある話へ飛躍していったのではなかろうか。

 第三の相違点として、「鏡」の話がカットされている点である。
 風土記には、「鏡渡」(鏡の渡り=地名)の説明として、狭手彦が佐用姫に与えた鏡を佐用姫が泣きながら栗川を渡るとき川に落としてしまったことになっている。鎌倉・室町時代になると、「鏡を落とした」だけでなく、「鏡を抱いて投身した」に変化する。しかしその後に石化伝説が登場すると、鏡にまつわる話も影をひそめていくのである。(このあと、鏡の持つ意味、および室町の文学に登場する鏡を抱いて投身する佐用姫についての考察が続きますが、中略します。)このようにして、佐用姫伝説は時代と共に変化し、人々が望み期待する内容のものに形づくられていった。

万葉集にあらわれる佐用姫伝説のかたち

 『肥前風土記』とほぼ同じ時代に成立した『日本書紀』には、大伴狭手彦の朝鮮出兵のことのみ記されていて佐用姫についてはなんの記述もないが、『万葉集』には佐用姫伝説について次のように述べられている。
 ---大伴佐提比古郎子(おおとものさでひこのいらつこ)、特(ひとり)朝命を被り、使を藩国に奉(うけたま)はる。艤棹(ふなよそひ)し言歸(ここにゆき)、稍(ようやく)に蒼波に赴く。妾(をみな)松浦佐用嬪面(ひめ)、此の別れの易きことを嘆き彼(か)の會の難きことを嘆く。即ち高山の嶺に登り遥かに離去の船を望み、悵然肝を断ち黯然(あんぜん)(たま)を銷(け)つ。遂に領巾を脱ぎて之を麾(ふ)る。傍(かたはら)の者涕(なみだ)を流さざるは莫(な)かりき。因(よ)りて此の山を號(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺と曰(い)ふ。乃(すなは)ち歌を作りて曰く--

 松浦潟(まつらがた)佐用姫の兒(こ)が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ

 遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまごひ)に領巾振りしより負へる山の名

 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上(へ)に領巾を振りけむ

 万代(よろずよ)に語り継げとしこの岳に領巾振らしけむ松浦佐用姫

 海原の沖行く舟を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫

 行く舟を振り留(とど)みかねいかばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫

 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山

 
として、上の七首の歌が掲げられているのである。
 このように万葉集では「鏡」のことにも「蛇婚」ことにもふれておらず、ただ狭手彦と佐用姫の悲しい別離のみが述べられているだけである。
 万葉集の成立はおよそ八世紀後半と考えられるので、風土記が成立した八世紀前半からわずか数十年間で佐用姫伝説は醜い部分を切り捨て美しい愛情物語として万葉集に登場してくるのである。文学性の高い「歌集」としての万葉集に於ては、やはり人々の心の琴線にふれる物語こそ必要だったのであろう。
 これは何も風土記の価値を下げることにはならないのであって、風土記は上代の地誌的・民俗的研究の有力な資料であることは疑うべくもないことである。(以下を略)


    -------- 岸川先生の論文のこの後の内容は、大伴氏のこと、佐用姫の出自の考察、佐用姫を祀る数々の神社の研究、播磨風土記のさより姫との関連、室町以降の文学に登場する佐用姫など、ここまでの3倍ほどの紙数を尽した労作ですが、このホームページの性格上、ここで打ち切らせていただきます。全部を望まれるかたは、メールにて、お申し込みください。お取次ぎいたします。

 洋々閣のホームページに御論文の掲載を快くご承諾くださいました岸川 龍先生に厚く御礼申し上げます。