このページは洋々閣のホームページのために楢崎幸晴様に書いていただいた「郷土史家 山崎猛夫]の一部です。
                                                    2002年2月1日
山崎猛夫先生の著書 『岸岳城盛衰記』より先生の思いを紹介します。



 「岸岳城」 「波多三河守」 「岸岳末孫のたたり」。これ等のことばは、今日唐津市・東松浦郡内に住んでいる人々は勿論、広く伊万里市・西松浦郡、そして長崎県北西部や福岡県西北部の人々にはよく知られていることばであり、それは幼い時から父母や祖父母から寝物語に聞かされた話の中のことばであります。 

 それはなぜ、それ程までに知られているのでしょうか。詳しいことは知らないまでも、人々はただ話に聞いたこと、即ち「岸岳城の波多三河守という殿様が、讒言されて豊臣秀吉から亡ぼされたそうだ」という程度のことは知っています。現在ではやむをえないことでしょう。平安末期頃から日本歴史に隠れもなく勇名を馳せた上松浦党の中心的存在であった岸岳の城主波多三河守親が、豊臣秀吉の怒りにふれて敢えなく没落し消え去ったことは事実であり、史実は多分に粉飾されて郷土の哀史・悲話として語り継がれてきているのであります。

 嵯峨天皇の後胤と伝えられる嵯峨源氏の一統は、松浦地方に土着して以来、次第に肥前の国の北西海岸一帯に分脈蟠踞して勢力を蓄え武門の誉れも高く、源平の合戦には平家水軍の主力となってよく奮戦して武名を輝かせました。また蒙古(元)の襲来に際しては郷土の一部は戦場と化し、一族挙げてよくこれを防ぎ、博多の浜に要撃して戦い、また防塁を構築して守り、再度の襲来には自ら敵艦を襲撃してこれを焼き、必死の奮戦は未曽有の国難をよく克服して祖国の危機を救いました。他国の者は源平の合戦の頃から、この勇敢な一族を「松浦党」と呼んでいました。

 やがて南北朝の争乱が起こるや、聖旨を奉戴して勤皇の義兵を挙げ、王事に挺身して各所に善戦し、幾多の合戦に忠勤を抜きんでました。しかしその間、時には一族の足並みも乱れて等しからず、去就向背も異なり、兄弟垣に相攻め合うこともありましたが、時世のおもむくところ、これもまたやむをえないことでもありました。室町の「花の御所」を塵芥にみて、意気軒昂なる若者は、

  十七、八が二度候かよ  枯木に花の咲き候かよ


と、船出の唄を高歌し八幡大菩薩の旗を汐風に靡かせて、朝鮮沿岸は勿論、南シナ海沿岸にまでも進出して「倭寇」の名をほしいままにしたのも、この松浦党を中核とした、豪気あふれる海の男たちでした。京都御霊の社の森にあがった一陣の火の手は、またたく間に全国に広がり、諸国の守護大名たちは一度に蜂起して、いわゆる戦国時代の開幕となりました。肥前の国もその例にもれず、波多・鶴田・草野・龍造寺・少弐・後藤・神代・千葉・大村・有馬等々の豪族が、朝に夕に権謀術数は茶飯事の事として、肥前の山野を血に染めて戦って飽かず、兵馬の動きは激しく、興亡の悲劇は繰り返されて、豊臣秀吉の天下統一に至るまで、しのぎを削って争いました。

 秀吉の野望は天下統一のみでは止まず、遂に朝鮮出兵の暴挙にまで発展しました。玄界灘を押し渡る出征将兵出陣の勝鬨が、やがて波多氏を初めとする松浦党諸家没落の挽歌になろうとは、誰もが夢にだに予期せぬことでした。やがて征旅の塵を払って懐しの故郷へ凱旋する波多三河守を海上で待ち受けていたものは、秀吉からの冷酷な一通の「譴責状」でした。「上陸かなわず。所領没収のうえ、直ちに流罪。」 身に覚えのない罪状に、申し開きも許されぬまま、関東へ放逐されたのでした。

 平安時代末期から「松浦党」は日本の歴史とともに歩いて来ました。そのため彼等の活躍の舞台や足跡は関東以西の日本の各地に印されていて、きわめて多くはなはだ広いのです。いわば我々の祖先は日本を、いや大陸にまでも股にかけて所狭しと闊歩してきました。しかしこの波多三河守の処分により、栄光に輝いた四百数十年にもおよぶ松浦党の歴史は、根底から音を立てて崩れてしまいました。そしてその名は日本歴史の中から永遠に葬り去られてしまい、再び世に出ることは遂になかったのです。かの平家の滅亡にも似た哀れさは聞く者をして感無量にさそい、多くの史話伝説を生みだしたのです。波多氏の没落は、即ち「松浦党」の崩壊でもありました。そしてその後、波多氏の遺領は秀吉の寵臣寺沢志摩守広高に与えられました。主君を失ない再興の望みも断たれた波多氏一族郎党家臣たちは、今はこれまでと悲憤の涙を拭いもやらず怨みを秀吉や志摩守に託して憤死し、また帰農し、またある者は流浪の身となって各地に散って行きました。主なき岸岳城は荒廃にきし、かっての栄光の歴史は苔むす城の石垣に往時を偲ぶのみとなってしまいました。そして現在では岸岳歴代城主十七人の墳墓でさえ確認されているものは一基もなく、各地に散在する岸岳の落武者たちの墳墓と伝えられている古塚一碑も誰の奥津城であるかも明らかではありません。没落以来四百年を経た今日に至るも岸岳主従の精霊は安らぐところを知らず、低迷して怨霊と化し時には世の人々に禍をするといいます。

 これらのことについて現在まで一連の「松浦党史」または「岸岳城」「波多氏」としてまとまった書物は出されていません。岸岳城波多氏没落の経緯は勿論、歴代の事績も伝説的なもの以外はほとんどが世に知られていません。上松浦第一等の名門であれば、古来数多の文書・記録なども所蔵されていたであろうに、没落の際焼却されたものか、他日散逸したものであるかは明らかではないが、現在まで伝えられているものは皆無に等しいのです。たまに他所から文書が発見されたり、旧家に保存されたりしているごく僅かな断片的な文書や、後で書かれた郷土史料によって、概略を知り全貌を推察するのみであります。特に郷土史料の古記録類は江戸時代中期以降に書かれたものがほとんどであって、どの程度まで信頼のおける史料であるかはきわめて疑問です。哀れな没落の同情も厚く「判官びいき」の色彩も濃厚で、かえって「贔屓の引き倒し」となっているところも多く、時代や人物の食い違いのところも少なくなく、そのまま真実の史料とすることは困難であります。

 しかし拙書においてはこれらのものも区別して明らかにし、読者の参考に供しようと努力を払ったつもりです。そのために断片的に書かれた松浦党・波多氏関係の諸書を知る限り漁り求め、その活躍の足跡を現地に訪ねて書いたものであり、いわば足で書いたものともいえましょう。
 また史料欠如の歴史の陥没・空白を埋め、切れた時代と時代、人物と人物等をつなぎ合わせて、正しく系統的に叙述することは、きわめて困難なことであります。現在まで知られ、公認されている史実・史書を基礎として、できうる限り正しい波多氏と、これを取り巻く上・下松浦党諸家の復元に努めたつもりですが、他に異説・反論の多くあることは十分承知であり、御批判、御教示はありがたく拝聴したいと思います。

 本書は主として既に発刊された拙書『北波多村史』(上・下巻)・『厳木町史』(古代・中世)・『七山村史』から波多氏関係、松浦党関係を抜き出してまとめたものですが、これらの町村史執筆以後判明した史料もこれに追加して掲載しました。
 また下巻の巻末には中世山城として珍らしくも昔の面影をそのまま残している佐賀県唯一の岸岳城をはじめ、波多氏およびその家臣等の遺跡・遺物を紹介し、後日の史跡探訪の便を図りました。よって皆様の現地の史跡探訪を願うとともに、これらの遺跡・遺物を祖先の形見として大切に保存し後世にまで残し伝えることはわれわれの義務であり、また責任であることを充分認識していただきたいと思います。そのために拙書が読者各位のためにいくらかなりとも「松浦党」「岸岳城」「波多氏」等についての御理解の参考になれば望外の幸せであり、更に地下の波多氏一族及びその家臣らの怨霊を慰めることのできるものともなれば、私にとって無上の功徳となるでありましょう。

    
*『岸岳城盛衰記』 上巻 自序より
       
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