末盧国について 魏志倭人伝 の中の末盧國の記述 ......... 又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之 ......... また海を渡って千余里で末盧國(まつろこく)に至る。 人家が四千戸余りあり、海山に沿って住んでいる。 草木が茂って道を行くとき前の人が見えないくらいだ。 人々は魚やあわびを取るのが上手で、浅いところも深いところもかまわず潜って取っている。 帯方郡(ソウル近辺)→狗耶韓国(釜山近辺)→ 対馬国(対馬)→一支国(壱岐)→末盧国(唐津市)→伊都国(前原市)→奴国(福岡市)と、ここまでは定説ですが、ここから先が諸説紛々で、「年立てり行方わからぬ邪馬台国」(加藤かけい句)ということになるのですね。 何にしても松浦地方の唐津は、邪馬台国に至るクニグニの一つなのです。これだけでもすごいことですね。今でも唐津の人は魚やアワビを潜ってとるのが上手です。 唐津新聞 平成12年10月17日 「末盧国の中心は千々賀?」 唐津市・千々賀遺跡の出土品を調査していた市教育委員会文化財課は、十七日、出土した漆の蓋状のものや直径四十センチの柱や板材などから、千々賀周辺が現在まで謎とされてきた“末盧国”の中心部ではなかったかとの見方を強めている。 同地は、千々賀の農村集落の北側の斜面に面した水田で、宅地開発のために平成十一年五月から六月に発掘調査した。範囲は山側の地層が流れ込んだとみられる九百六十平方メートル。出土した土器などの特徴から弥生中期から後期にかけての遺跡と見られる。 蓋状の漆器は、計三枚が見つかった。こうした漆品は、前原市の井原遺跡、福岡市の雀居遺跡、吉野ヶ里など大規模な拠点集落から発見されている。また直径四十センチの柱には仕口(木を組み合わせるための溝)が切ってあり、かなり立派な建物の部分らしい。さらに周辺では、甕棺と銅鉾、銅戈などが出土した千々賀庚申遺跡、銅の腕輪が出土した千々賀宇ノ木遺跡があり、久里双水古墳も近いなどの理由から、末盧国の拠点的集落だった可能性が強いとしている。 魏志倭人伝に記された国々の拠点的集落は、伊都国が井原集落、奴国が雀居遺跡、不弥国が吉野ヶ里などと、解明されてきているが、末盧国の拠点については、それを推定すべき強力なものがなかった。 今回発掘された、千々賀遺跡は二世紀から三世紀ごろのもので、倭人伝が書かれたと見られる年代とほぼ一致する。 なお今回発掘された、蓋状の漆品のうち、形状のしっかりしたものは二枚。このうち一枚は、ほかの遺跡でも見られるように、全体を黒漆で塗り、中心の小丸と外円のやや内側に赤色の漆で丸い線が描かれている。 これは吉野ヶ里などほかの遺跡とも同じデザインの物だが、もう一枚は前の線に加えて、幾何鋸歯紋と呼ばれる、細かい三角形の文様や、斜線、細線などが描かれている。 田島龍太文化財課係長の説明によると、「同様のパターンは、宇木汲田遺跡から出土した多紐細紋鏡などの青銅器に見られ、魏志倭人伝の時代の朝鮮半島の影響を受けていると思われるが、漆品に見る国内での出土例はない」と言う。 なお、今回出土した、漆器二点は、現在末盧館で開催中の「末盧国の世界展」で、今月二十二日から十一月五日まで特別展示する。 司馬遼太郎 『街道をゆく』十一 虹の松原 肥前の諸街道 三 より 糸島半島を離れて、ふたたび唐津街道(国道202号)に出た。 沿岸づたいに西にむかうと、やがて唐津湾の東端にさしかかる。東端に包石という地名があり、ここで筑前国がおわり、肥前の国がはじまることになる。 肥前のなかでも、古代でいう末羅(古事記)の国はこの唐津湾から平戸島の島々をふくめるのであろう。『魏志』でいう末盧国である。のちに、松浦の文字をあてる。 ついでながら「ら」というのはおそらく、古代北九州で通用した言語のなかで「国」をさすことばではなかったかと思われる。 むしろその言葉の本場は古代朝鮮―いわゆる三国以前―にその南端地域にあった無数の小国家群の名称であろう。そのうち有名な国名としてはいまの釜山付近にあった加羅である。のち日本語の中で単に外国をあらわすことば(カラ・韓・唐)として発展してゆくことを思えば、古代、このマツラあたりと加羅(伽羅)の関係はよほど深かったもであろう。唐津湾の唐(から)は、本来、朝鮮の韓(から)だったにちがいない。ここから、いまでも釜山まではちかい。有史以前のマツラの人々が、 「ちょっと加羅へ行ってくる」 といって刳舟(くりぶね)に乗った海外(から)とは、要するにいまの釜山のことであった。九州の浦々では二十世紀に入ってからでも、海外への出稼ぎ婦人のことをカラユキサンという。 三国以前の朝鮮南端の小国家(部族国家)群には、阿羅(あら)、多羅(たら)、草羅(そうら)などといった国名がある。それに、古代朝鮮においてかすかに朝鮮本土に対し別国をなしていたかの観のある済州島は、耽羅国(たんらこく)とよばれていた。 これら古代朝鮮の「羅」のむれに対し、玄界灘をへだてて、肥前沿岸に末羅国があったことをおもうと、唐津湾はその時代ではよほど重要な土地だったにちがいない。 出土木簡に氏族の姓 続日本紀の「川部」など 朝日新聞2001年2月21日夕刊の記事 佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡で、平安時代の続日本紀や肥前風土記に記されている「川部」や「日下部」という古代氏族の姓が書かれた木簡が出土した。川部氏は続日本紀で遣唐使船のかじ取りをつとめ活躍したとされる川部酒麻呂の一族と考えられ、県教委は「文献でしか分からなかった古代氏族の存在がさらに補強された」としている。 木簡は長さ19・1センチ、幅3・8センチ、厚さ0・9センチ。「大村戸主川部組次□日下□」の十二文字が墨で記され、下の部分が欠けている。上の□は「付」、下の□は「部」とみられる。全容が分からないため詳しい内容は不明だが、「大村に住む戸主川部組次」と読めるという。遺跡の中の奈良時代の集落跡の水路から見つかり、この時代のものと見られる。 続日本紀の宝亀六年(775年)四月の記述には、肥前の国松浦郡人のかじ取りとして川部酒麻呂が登場する。酒麻呂は勝宝四年(752年)に遣唐使船のかじ取りとなり、航海中に船火事でやけどを負いながら、遣唐使を無事に帰国させた功績で,地方豪族の位を与えられたと記されている。木簡の「川部」は酒麻呂の一族と考えられているという。 「日下部」は肥前風土記で弟日姫子(おとひひめこ)(松浦佐用姫)の子孫として登場する。同遺跡からは木簡五点のほか、奈良時代に焼かれた陶器の「奈良三彩」や平安時代の緑釉陶器も出土している。これらの出土物は佐賀市の県立博物館で二十七日から展示される。 |
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