高取邸を考える会2 このページは旅館 洋々閣のホームページの1ページです。 |
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更新2007年6月18日 | |||
杉板戸に螢のあまた描かれて灯し続けし百年に遇ふ (高取邸) 新納 玲子 第一歌集 『まつかぜ』より |
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声 高取邸を考える会に寄せられた声を、掲載していきます。 |
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佐賀新聞 2004年3月3日の記事より 青木繁の「炭鉱王」、多久市に里帰り
明治期を代表する洋画家青木繁が描いた「炭鉱王」高取伊好の肖像画が、高取の故郷・多久市に里帰りすることになった。作品は東京在住の孫が所蔵し、これまでほとんど世に知られていなかった。市政五十周年を迎える同市は五月に記念事業として特別企画展を開き、一般公開する。 肖像画(縦八十センチ、横六十センチ)は背広姿の高取を描いたもので、「TBS AWOKI 1910」とサインが入っている。一九一〇(明治四十三)年は青木が亡くなる前年。 絵は現在、孫の田中竹生さん(73)=東京都品川区=が所蔵。三十年以上前に青木の故郷久留米市の石橋美術館に貸し出しただけで、存在を知る人は少ない。自宅に飾っていたが、傷みが目立ってきたため、「文化財として活用してもらおう」と多久市に寄託した。 三月中旬ごろには多久市に里帰りする予定で、市政五十周年記念の目玉として五月二十二日から三十日まで市郷土資料館で「高取伊好と青木繁展」を開く。絶筆となった「朝日」など県内に残される一九一〇年制作の青木作品と高取の関係資料を併せて展示する |
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『高取邸保存に関して』 平成12年9月吉日 京都市在住 池田 亮 『第一章 − 唐津と高取邸の関係』 現在わたくしが唐津を訪れるのは、夏期休暇中か年末年始、唐津くんちの時しかありませんので、唐津市の観光政策に就きましては全く把握していないのが正直なところです。しかし、そう頻繁に帰郷しないわたくしが一番観光資料を目にしやすい駅を利用した際でさえ高取邸に関する資料を見たと記憶がありません。唐津市のHPで紹介されているので資料が無いことはありえ無いとは思うのですが、未だに手にしてません。 放送された映像を通してさえ、その能舞台、茶室など、豪華絢爛たる装飾に圧倒されました。外観もさることながら、内部は更に素晴らしいとは聞き及んでおりましたが、あれほどまでに壮麗・豪奢なものが保存状態も比較的良く残されているとは思いもしませんでした。正しく“高取邸こそは唐津の至宝である“と実感致しました。あの放送を境にして、わたくしの高取邸への関心は高まる一方なのですが、残念ながらわたくしが帰省する際には公開されておらず、未だにその偉容を目にすることは叶っておりません。 『第二章 − 高取邸公開に関する提案』 STRONG OBJECTION! 旅行で唐津に来られる方が多いのは、海水浴客を除いては、行楽シーズンの春か秋だと思います。春先の時期は気候も良く、天気も比較的良好でしょうから、近郊、遠方を問わず、来られる旁は多いでしょう。中でも5月は唐津城の藤の花も奇麗になっている時期でもあるでしょうから、多いと察します。 しかし実際には、観光ベストシーズンを外して高取邸は公開されている、しかも梅雨の始まる6月と言ふ鬱陶しい時候に開催されている。 確かに歴史的建造物の維持・保存には、莫大な費用がかかることは想像に難くありません(このことは“曳山”と言ふ文化遺産があるので言わなくてもお分かりになると思います)。しかし、現在の公開方法では何の解決策にもなっていない。高取邸の維持にお金がかかるのであれば、その建物自体を広く一般に認識してもらい、少しでも市の負担を軽減するためには、その宣伝効果によって多くの旁に来訪して頂き、入場料や寄付を頂戴するなどして収入を得ると言った方法を取らざるをえないでしょう。そういう事情を考慮すれば少しでも観光客が多い時期を見計らって設定すべきなのではないでしょうか? 話しは変わりますが、唐津のメインイヴェントである唐津くんち、現在は文化の日を挟んで開催されておりますが、その昔はそうでなかったと聞いております。確か10月の終わる頃に開催されていたのではなかってでしょうか。では何故開催日をずらして開催されているのでしょうか?その理由は樣々だと思いますが、祝日を入れた方が観光に来て頂きやすい、などの理由があったのではないでしょうか? もし、上述の理由も含まれているようでしたら、高取邸の公開に関しても、くんち前後、国民の休日や祝日を挟んだ連休の時期などに開催すると言ったような、“迎える側の事情”ではなく、“ようこそお越し下さいました”と言ふ“観光客優先の姿勢”での日程へ変更する必要があるのではありませんか? (補遺2)京都に駒井邸と言ふのがあります。ここは音楽会などにも活用されており、その活用方法は実に素晴らしいものですので、これを手本にされては如何でしょうか? 詳細は下記HPをご覧ください また、観光するには(特に遠方から唐津を訪問するには)何かしらのきっかけが無いとわざわざ旅行し難いと言うのが、実状と思いますが、現行の開催日では、近郊の旁以外には来難いと言ふ感が否めませんので、開催日に就いては多いに議論の余地があると思います。しかしながら、年中公開する必要はまったくないと思いますし、年中公開ほどの愚行は控えるべきだと考えます。しかし、ただ来て頂くだけでは魅力がありませんので、唐津焼や有田焼の器を利用した地場産業の事も考慮したカフェ等を設置するなどの対策も考えることが必要だと思います。 『第三章 − 高取邸保存・活用。提案型都市唐津を目指して』 最近雜誌の表紙に“唐津”の文字が認められるものが頻々に発行されています。 また、特集されている記事が毎回同じような内容では、“唐津にはあれだけしかないのか?“との疑問を唐津をご存知ない旁に抱かれないとも限りません。リピーターの旁にはわざわざ強力にアピールする必要もないでしょうが、行きたいけれども何かきっかけが欲しいと思われている旁、再訪したいけど毎回同じような感じでは今一つ行きたい気になれない、などと考えておられる旁にとって、『高取邸』の存在は申し分のないものだと思います。唐津が全国から注目されている今こそ、唐津の至宝である高取邸をもっと観光の資源として歓迎、活用すべきではありませんか? 現在のままでは、国の重要文化財に指定されたとは言え、広く、一般に知られている訳ではなく、ただ、ひっそりと興味ある人が訪れると言う感じに留まっているのではないでしょうか?これでは、保存はしていても活用はしていない、ただただ、朽ち果てていくのを遅らせているだけとも思えるのですが。何とか活用して、その存在を唐津市民だけでなく、佐賀県民、いや、全国民に知って頂きたいのであれば、公開方法の再考は必至です。 『第四章 − 京都に見る歴史的建造物の保存・活用を参考に』 現在わたくしは京都に暮らしております。 この方法を採用すれば“今週は無理だけれども、来週なら行ける!”と言ふような人もいらっしゃると思います。また、葉書による応募や電話予約などの方法を採れば訪問者数を調節できますし、多くの方に起こし頂くことも可能だと思います。この方法を高取邸へも採用は出来ないものでしょうか? また唐津独自の遣り方を模索するのも重要ですが、同じような建築物を保有する地方都市の中に見る歴史的建造物の保存方法を手本にするのではなく、京都と言ふ日本屈指の歴史的資源を有する都市を参考にすることによって、地方にありがちな無気力な物体に高取邸を めるのではなく、建築当時の唐津の隆盛を感じさせるような、高取邸を訪れることで、その歴史的価値や背景を見出せる“生きている“雰囲気を醸し出すものとなって欲しいものです。 『第五章 − 高取邸誕生の時代背景と唐津案内』 高取邸を訪問したいと考えておられる多くの旁に、唐津に現存している多くの歴史的建造物を見学・堪能して頂く計画を立てられてみては如何でしょうか? 唐津は曾彌達蔵、辰野金吾と言ふ日本建築史に名を残す偉人を輩出した町であり、現在でもまだ明治期から昭和初期にかけての古い建物が多く点在している。これらをも観光資源に採用する事はできないものでしょうか?高取邸だけでも十分すぎるほどの魅力はありますが、より良い効果を出すためには唐津建築探訪コースを設けることも可能だと思います。もし、コースに含みたい建築物でも、まだそこに人が住んでおられるのであれば、その旁の意見を優先しなければなりませんので、公開には理解と協力が必要となるのが問題です。 そこで、、高取邸がなぜ唐津と言ふ土地に誕生することができたのかと言ふ歴史的背景から、高取邸のみに関心を留めるのではなく、幅広く関心を持って頂けるようにすることはこの企画の重要ポイントであると思います。 『高取伊好=石炭王、石炭=三菱合資会社唐津支店本館、明治建築=曾彌達蔵+辰野金吾』と言ふ図式で唐津における建築関連の観光プランを構築しては如何でしょうか。 しかし、すべての建物をただ単なる歴史資料館的な役割に留めてしまうのは問題。そのようなものは“一回きり”との印象が強い。2回も3回も訪問したいと言う気にはならない。多くの資料館として利用されている建物はこの無気力的展示方法で数々の失敗をしている。結論から申しますと、何かしら人を惹き付ける仕掛けが必要と言う事です。能舞台も茶室もあるのであれば、それを利用する方向で検討されてみては如何でしょうか。第二章で申し上げました、京都の駒井邸の活用方法を検討して頂くと大きなヒントがあると思います。ここは歴史的な雰囲気があるにも関わらず、モダンな印象を受けます。決して懐古主義的にはなっていない。まさに現代に生きています。 『第六章 − 茶道と唐津焼』 高取邸のお茶室(利用可能であれば)を利用して、唐津と茶道とのつながりを認識して頂けないものかとも思います。 利用できるならそれに超したことはないのですが、もしできないのであるならば、近くの高取別邸跡に新たに茶室を設けるか、現在活用可能な茶室を利用するなどの手段をとることもできるでしょう。この茶道と唐津の関係に関しては何も高取邸に固執する必要はないので、旧大島邸の茶室などの茶室を利用させて頂いてはどうでしょうか。 ところで、わたくしが思うに、唐津に帰郷しても、なんら唐津とお茶の関係を感じる事が出来ない。お茶の世界であれほどまでに唐津焼が重宝されているにも拘わらず、お茶との関係が希薄に思えて仕方ありません。これは調べた訳ではありませんので、実際は頻繁にお茶会が行われているかもしれませんが、観光客が気軽に楽しめる大寄席の茶会が観光シーズンに頻繁に行われている感じはしません。 たとえ、お茶会が色んな箇所で開催されていても、それはあくまでも、地元の人々が主立ったお客様でしょうから、それでは観光に来られた旁には何の関係もありませんので、もっと幅広く唐津とお茶の関係をクローズアップして紹介するために、高取邸の茶室を利用したり、他の使用可能な茶室を利用して、しない数箇所で気軽にお茶を楽しめるなどの手段をとるべきです。 『最終章』 高取邸のことを考えてますと、現在は九州電力株式会社(以下九電)の所有となっておりますもう一つの高取邸である“舞鶴荘”のことが思い浮かんできます。これをどうにか九電の協力を得て、色んな旁に楽しんで頂けるように開放させては頂けないものかと。もし、この建物をも利用できる得るようになれば、あのエリアの文化度が更に増すのではと考えます。屋敷町としての風格を残したまま、あの界隈が五感で楽しめるエリアへ変貌しやしないかと。 唐津には焼物がある、玄海の旨い海の幸がある。しかし、それを堪能できるところとなると、そう幾等も思い浮かばないのが寂しいところ。同じ高取邸を利用させて頂くのも一つの方法ではありませんか。 重要文化財の本宅で音楽、お茶さらにはお能まで楽しめ、新家のほうでは味覚を満足できる。実に優雅な時間を過ごす事が出来る、これこそ屋敷町にふさわしい時間の過ごし方では。唐津の栄華を再び感じ取れるエリアにはできないものでしょうか。しかし、あの界隈を開発するに当っては、使用する色は落ち着いた統一された色でなければ、その風格を感じる事はできなくなってしまうので、無秩序に開発するようであれば、それはしても意味が無い。今あるもので十分活用できるものは活用し、できないものは雰囲気にあった改造をする。する必要の無い事はしない。徹底した柱が重要です。 また、ここで重要な事は、この手の運営に当っては、専門のプロにその全権を委ねるべきであり、下手に素人が介在する事は控えるべきであると言ふ事です。幸い、高取邸保存・活用に当っては正しくそれに相応しい専門実に頼もしい面々が名を連ねていらっしゃるので問題ありませんが。 ところで、京都でも東京でも「唐津焼ほど料理が映える器はない。」と言うような意見・感想を良く耳にします。プロの料理人だけでなく、素人の料理人の旁からも同様な意見を頻繁に耳にします。これは唐津焼の持つ素朴さのなかの気品と言ったもののなせる技ではないでしょうか。プロだけでなく、素人までも魅了して止まない唐津焼。この魅力を唐津を訪問して下さる多くの方に分って頂ける様、先ず初めにお茶道具として利用し、茶道と唐津焼の関係を再確認して頂くと言うのは如何なものでしょうか?飾ってあるのと、実際に使っているところを見て頂くのとでは感じ方が違いますので、絶好のPRの場となるのではないでしょうか。 ただ、お茶道具となると、その道具組みに唐津焼だけを使うのは問題ありますので、そこは日本屈指の陶芸の里佐賀ですから、他の産地からも道具を提供して頂くなどの措置をとれば県内の連携も深まるのではありませんか?また近県からも提供して頂くと互いの連携になるのではないでしょうか? 大企業でも統合・合併が続いております。そのような中、地方都市が存続していくのには特色を表すしか生き残りの手段はない。その手段となるものが、幸いにも唐津にはある。しかも近くには有田・伊万里がある。同じ焼物ではあるが、全く違うものである。これは協力すれば面白いことができると思います。 横道に逸れますが、茶道には「千家十職」と言ふ職人集団が存在してます。これに似たような集団を県や市が抱えて売り込むと言う企画も面白いと思います。ただ、これには消費者の立場を優先しない限り、成功はしないでしょう。インターネットを活用して、このような物が欲しいなどと言ふ調査をなされるのも一つの手段ではありませんか。日本だけではない、海外とも自由に遣り取りできる時代ですので、唐津も有田とマイセンの関係のような職人つながりの町と提携しては如何でしょうか。 これにてわたくしの提案を終わらせて頂きますが、これをたたき台に活発な議論が沸き起こることを楽しみにしております。 唐津の発展を心より望むものの意見としてお聞き届け頂ければ幸甚です。
『追稿 − 唐津市への提案 − 藝術大学の設置』 唐津出身の“曾彌達蔵と辰野金吾”と言ふ2名の偉大なる先達に敬意を表して、建築・工藝デザイン・焼物・茶道等が勉強できる、藝術大学を設置しては如何でしょうか? 地方にあって特色を持たせるのに、これほどの理由になるものはないのではありませんか?建築の分野では唐津焼との関連で茶室建築コースなど設置したら特色がでて面白いかもしれません。焼物と茶道と建築を専門的に学べる学校の設置は唐津にこそ相応しいものではないでしょうか。 付録といたしまして軽井沢町の歴史的建造物への取り組みの紹介したHP(アドレスは下記)がありますのでこれも参考にして下さい。 今後の取り組みに活用下さい。http://trust.karuizawa.ne.jp/architecture.htm |
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「高取邸を考える会」の皆様へ 有明高専 建築学科 森山恵香 2000.9.26 一雨毎に涼しくなって、秋の気配を感じる今日この頃ですが、皆様には如何お過ごしでしょうか。 七月末に高取邸を調査した際には、大変お世話になり、ありがとうございました。 その後、九月まで調査が続いたため、メールを出す機会を逸しておりました。 長らくのご無沙汰をご容赦ください。 さて、久しぶりに学校に戻って、ホームページを見せていただきました。 様々な分野から高取邸に対する反響があることを知り、私自身、とても嬉しく思っております。もっと多くの人に、この素晴らしい建築を知ってもらいたいと切に願っている次第です。 ここ数年、炭鉱主の住宅について調査・研究をしていますが、筑豊の炭鉱主住宅とは異質なものが高取邸には備わっているように感じます。3年前に初めて高取邸を調査して以来、その美しさに魅了され続けています。 当住宅には随所に伊好の芸術に対するセンスや趣味が窺われ、能舞台周辺の美しさにはため息がでます。伊好の個性や唐津という地域性によりもたらされた高取邸の洗練された美しさを公開する場がもっと増えることを希望しています。 |
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ジョン ペイン博士からの手紙 この手紙はアメリカのニューヨークの郊外で、フランク ロイド ライトの設計した家にお住まいのジョン ペイン博士からいただいたものです。 博士は、古い建物の保存などに積極的に取り組んでおられる方で、4月に洋々閣にお泊まりになりました時に、高取邸を訪問なさいました。そのお礼と激励の手紙です。.博士のお許しを得て、ここに掲載させていただきます。 2000年5月22日付け ジョン M. ペイン博士より 大河内はるみへの手紙 親愛なる大河内夫人、 先般唐津を訪れました際には、高取邸の見学をおとりはからいくださいましてありがとうございました。ご記憶とは思いますが、家内と私のこのたびの日本旅行は、フランク ロイド ライト建築物保存協会の派遣団のメンバーとして、ライト氏の日本における作品の保存について調査し、話し合う目的でした。(私達の家はフランク ロイド ライトの設計によるもので、ニューヨーク郊外のニュージャージー州、グレンリッジにあります。) この協会の目的は、フランク ロイド ライトの建物を破壊から守ることであり、この十年間の活動において、ただの一軒も失っていないことを誇りとするものであります。ライフスタイルの変化や、地価の高騰により、建物を守ることはたやすいことではありません。 日本においても然りと承っております。(日本では、ライトの最高の作品の一つであった帝国ホテルのごく一部を残してすっかり失われております。) 七世紀や八世紀の建物さえ現存する貴国においては、理解に難くないとはいえ、それでもなお、明治期の建物のような「近代」建築を保存する考えは比較的最近のものだと聞いて驚いております。またその方向に考え方が変わってきていることを喜ばしく思います。 このたび思いがけず高取邸を拝見しましたことは、フランク ロイド ライトの全史跡、および奈良、京都の優れた建物を見て回った全行程の中でも、頂点と云って過言ではありません。 明治期の建物(“外人”として特に好ましく思うのですが)について、東京の前野教授(訳者註 この四月に東京大学を退官されました。)は、東京駅保存の成果にまで敷衍されましたし、名古屋の近くの明治村と長崎に保存されている洋館をも訪問しました。(訳者註 グラバー邸) これらの建物と高取邸が際立って違っている点は、高取邸が19世紀の後半の日本において、進取と旧守の相克のはざまで起こっていた劇的な緊張感を完全に体現していることです。 私達が拝見した現存する明治期の建物の多くはどちらかというと、というよりむしろ、これでもかというほどに、西洋の様式をとっていて、日本的要素は細部において残されているに過ぎません。 対照的に、高取邸は、全く違った文体の、際立った外観、内部を持つ洋式部分を除いては、日本のどこの裕福な階級の伝統的な家屋とでもいえるでしょう。 このような和洋折衷の建築様式の並立は、日本の近代史のある特定の時期にのみ認められるものであり、意図としては、当主の進取の気性を日本文化の深い伝統の中に投錨し、息をもつかせぬ変動の世界にいくばくかの不動性を具現することにあるように思われます。 公的な博物館などで見られる入場者への専門的解説がなくても、私達はまるで高取家のご家族が、昼はヴィクトリア朝様式の客間でお茶を供し、また一夕は能舞台にて饗応するさまを目にみるごとくに感じたのです。 この屋敷は、まさに完璧に建築当時の時代を表現し、また、内部の洋式の家具等をそこなわずに備えたままに21世紀まで持ちこたえてきたことは稀有のことでありましょう。 (他所において私達が見てきた多くの明治期の建物は、自体はすばらしいものでありながら、全然家具が無いか、または、その家にあったものでない、時代の新しい家具が置かれていました。) 市当局の高取邸保存計画が進められる際には、そこに実際に住んだ人々の形跡を可能な限り多く盛り込まれることを切に希望します。 高取邸が実質上完全な形で今日まで残っている、しかも、保存のための修復にも、公開のための準備にも、比較的手がかからないことは、奇蹟に近いことです。 市が高取邸の定期的な公開方法を考慮すれば、見学目的だけで唐津を訪れる人があるはずです。 反対に、もし高取邸が、解体や放置により失われるということになれば、それは悲劇です。 私達は、皆さんが出来る限りこの家を公開し続けることを希望します。そして、私達の声がこのかけがえのない文化財を有効に活用するために政府に働きかけるたくさんの声の一つになることを望みます。 アメリカ合衆国では、たとえば高取邸の保存のような有意義な計画に対して市民がちょっとした寄付をする習慣があります。 (当方の税制ではこれを奨励するものであり、日本においても同じような考慮がなされることになるでしょう。) 今回の旅行を終えて見ると、小額のトラベラーズチェックが残っておりました。 再度ドルに換えるよりは、と思って同封いたします。私達のささやかな支援の気持ちの表れとして、このすばらしい文化財を守るために有益にお使いくだされば幸いです。 洋々閣のおもてなしと、大河内夫妻のお心使いに感謝します。 すばらしい訪問でした。また近いうちに再訪できることをいのります。 そしてその時には、高取邸の保存は確たるものとなっていることを祈ります。 敬具 ジョン M. ペイン拝 (訳 大河内はるみ) この手紙の原文はこちら ペイン博士から、一万円の寄付をいただきました。市当局にはまだ高取邸基金がありませんので、この6月3,4日の一般公開の時に、高取邸の何室かに生花を活けさせていただきました。 見学の方々に喜んでいただきました。 高取邸を考える会事務局 |
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お願い 高取邸の保存や活用について、あなたのご意見をお聞かせください。また他の町の情報もお寄せください。この会には専門家のメンバーもいますので、高取邸に関するむつかしい質問にもお答えできると思います。どうぞメールをお寄せください。 むつかしくない質問にも、喜んでお答えいたしますので、小学生さんたちもどうぞ。 メール:info@yoyokaku.com |
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「高取邸を考える会」事務局 〒847-0017唐津市東唐津2-3-10 tel:0955-72-7186 fax:0955-73-0604 e−mail: info@yoyokaku.com |
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「高取さんの家のこと」 談 竹尾 彦己氏 聞き書き 事務局 大河内はるみ |
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私が唐津小学校へ入学したのは大正六年のことでした。 運動場にブランコや肋木(ろくぼく、体操用具の一種)など、水色に塗ったのが並んでおって、全部に「高取伊好氏寄贈」と書いてあった。もちろん読めんから母に読んでもらって、高取さんが小学校にくださったものだと教わった。 フーン、高取さんという方はそんな方なのかと、子供ながらに感銘を受けたものだった。 唐津小学校の建築資金だけでなく、中学校や女学校、あらゆるところに寄付をしておられますよ。 その頃は現在の埋め門館の場所には元唐津藩士族の老夫婦も住んでおられて、城内はそれは静かな屋敷町でしたが、高取家は我々腕白連もさすがに近づき難い感じがしました。 何かこう、特別な、言うならばお城の天守閣のような、大切な建物と思っていました。 おそらく唐津の人はそう思っとったでしょう。 今でも私の中でその思いは変わらない。 高取さんの家の裏の浜で、石炭を積みに大島の港に入ってくる船をよく眺めたものでした。 友達と、誰が先に船を見つけるかを競うのです。 水平線上にまず薄い煙が立つ。 大島と鳥島の間の方向に手を突き出して、大島の右の端から指二本のところに見えたぞ、とか。 それから煙突の先が見えてきて、最後にゆっくりと船体が現れる。 確かに、地球は丸いのですな。 私の父が唐津に鐵工所を興したのも、高取さんの石炭があったからです。 石炭が唐津の基盤を作ったのですよ。 忘れてはいかんことでしょう。 高取家の能舞台は私の謡いの初舞台でした。 たしか「俊寛」でしたか。 今でも能舞台はそのままですね。 嬉しいことです。 洋間のほうは、この「高取邸を考える会」で音楽会をやったときに久しぶりに入りました。 時が戻ったようでしたな。 高取さんの家は、伊好氏長男の九郎さんの未亡人、紀子さんが市に寄付されたそうですが、これからは市民の宝としてみんなで守っていかねばならんですな。 周辺も含めて城内地域全体を大切にせにゃならんです。 何しろ高取さんの家は唐津の天守閣ですからね。 (平成10年8月17日) |
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高取邸との出会い、あるいは伊好氏との出会い 東京都 西村慶子 私は高取邸へは佐賀に住んでいた平成二年から八年までの間に幾度か伺ったことがあります。 その頃、私は自分自身の調べもののため、県立図書館の歴史資料室で資料を繰っていました。そこで度々高取伊好氏の名前に出会い、その業績や、産業の振興、人材の育成に巨額の私財を投じられたことなど、社会に大きな貢献をされたかたであったことを知りました。 やはりその頃のことですが、多久を訪れた折、「東原庠舎の旧跡」の石碑が目に留まり、裏に廻ったところ、伊好氏の書であることが記されていました。 同じ日、西渓公園を訪ねて、文教の里多久の儒者の子としての伊好氏の生い立ちを強く印象づけられました。 更に、その後上京して教育を受け、炭坑技術者から経営者へ。 苦難を乗り越えて成功を納めたその経歴を知った時、高取邸に感じた精神性の豊かさを納得することができました。 石炭産業が隆盛を極め、唐津が繁栄していた頃、高取邸には全国から多くの要人や各界の実力者が来訪されたと聞いています。 迎賓館にふさわしい凛としたたたずまい。 内部にはそこここに伝統的な、またはモダンな趣向が凝らされており、開放的な二階座敷からは唐津湾が一望でき、最高のもてなしの場であったと思います。 また実業界の仲間の集い、お謡い、能、お茶の会、時には花見などに地元の人たちも招かれて心豊かな時を過ごした事でしょう。 近代和風建築としては専門の先生方が調査し、高く評価されました。 それに加えて唐津地方の歴史的・文化的遺産として大切にしたいものと思います。 (平成10年8月 高取邸を考える会への手紙) |
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随想倶楽部 (平成12年5月9日付け朝日新聞より転載) 吹きガラスの窓の向こうに 旅館洋々閣 女将 大河内はるみ 能舞台に続く大広間に座って庭を眺めていますと、窓の向こうに不思議な時が流れます。明治期の吹きガラスを透かすと、眩しすぎる陽の光はちょっとセピアがかって気泡を含み、端座する老女二人、丸髷なぞ結っておればなおよろしかったでしょうに。二人のうちのほっそりと臈たけた女人は、この家のご当主高取紀子さま。控える太めの局が、かく申しあげるわたくし。二人して、時に当家の令嬢日出子さまと三たりして、ため息をつきつつ、繰り返し繰り返し案じることは、この屋敷の行く末のこと。 明治三十七年に建てられた高取邸は、石炭産業の終焉とともに迎賓館としての役割を終え、偉大なる明治と若き大正を残像として、昭和三十年代にその窓を閉じたのでした。
紀子さまがこの家を相続されてからはただ一心に守ってこられ、三十余年の歳月が流れた頃、平成三年の重なる台風被害によりいよいよ保守は困難となり、心労の日々のうちにさらに二年が経過して雨漏りが悪化、とうとう断腸の思いで解体を決意なさって、「この屋敷とここで暮らした人々に鎮魂の想いを籠めて」と、写真集をお作りになりました。
その間私は何のお手伝いもできず、ただ「こわしてはいけない」という思いが募る一方です。たびたび伺っては、お屋敷を見廻り、最後には座り込んでため息をつくばかり。そしてその頃、吹きガラスの外側では時勢は大きく変わろうとしていたのです。
社会の価値観が変わり、歴史的文化的なものが再発見されてきていました。国の方針による近代建築の保存が始まり、かの写真集は一人歩きしてあちらこちらに高取邸の存在を示していたのです。 文化財の調査が入り、それから先は奔流でした。紀子さまの願いは天に通じて、平成十年に高取邸は国の重要文化財として永久保存が決まったのです。
その後、邸は唐津市に寄贈され、母娘は唐津を去られました。これからは私達の宝としていかに保存し活用していくか、唐津市民の文化意識にかかっています。
私共の旅館洋々閣もやはり石炭を時代背景とした明治、大正の建物ですが、営業のためにやむをえない改変を加えています。それでもつい先日、カナダの詩人で映画「イングリッシュ ペイシェント」の原作者として世界的に有名なマイケル オンダーチェ氏がお泊りになり、ここに来て日本を見たとおっしゃってくださいました。そして、この家が長く守られるようにと、お守りをくださいました。イヌイットの人々が彫った石の鳥です。これは先祖の霊かもしれないと私は石の鳥を掌にのせて思います。うちにも少しは残る古い吹きガラスの向こうに、この鳥を飛ばせたいと夢見ます。非力な私ですがどうぞ高取紀子さまのようにこの家を守れますようにと祈って。
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