このページは高取邸の修復に際して文化財建造物保存技術協会から現場に赴任された太田英一氏に連載していただくエッセイです。随時更新していきたいと思っています。




高取の記憶
太田英一 (文化財建造物保存技術協会)


岡田時太郎

その3 (平成20年7月記)


設計者は誰なのか?

前回から半年近く過ぎたのだと、洋々閣の女将から届いたメールに改めて月日の移り変わりを感じました。実は、最近になって何かにつけてこのお話のことが気になり、重い腰を上げなければと思っていたところだったのです。そこにタイミング良く原稿をとのメールが届き、女将の心使いに感謝している次第です。

これまでの拙いお話を自ら再読してみました。いやはや、恥ずかしい程の内容に赤面しそうです。学術的高尚な内容など到底書くこともできませんが、今回は少しばかり真面目なお話しが出来たらと頑張りました。嘘か誠か定かではありません。また、真実を決定付けるだけの資料もありません。あくまでもお話しとして、お付きあい頂けたらと思います。なお、始めにお断りしておきますが、ここに記すお話しは学術研究ではありません。あくまでも、私が現場で体験或いは感じたことをつらつらと書き記したものであることをご理解頂けたらと存じます。

 

設計者は誰なのか?このことについては、実は既に洋々閣のサイトで女将が考察されています。詳しい話は其方にお譲りすることとして、私が現場で知り得た、というより、ひょっとしてと思うに至った経緯をお話しします。それはある意味で全く繋がりの無い情報が発端となりました。ただ、その時の作業があったことで、ある日全く違う情報から知り得たという不思議なお話です。

何故そうしたことに至ったのか?まず、最初にきっかけとなったのは、旧高取家の給排水工事をするために、かつて市役所より資料提供して頂いた水道局の図面を見ていた頃まで遡ります。当初予定していた場所以外にも、能舞台使用者用にもう1箇所便所を復旧しようという話になったのです。そこで、その付近の水道工事図面を引っ張り出し見ていると、なんだか違和感を覚えたのです。図面中に「既設水道」と記載されている箇所。これが何かおかしい。でも何かは分らない。といつもの調子でサッパリ見当も付かない。こうなると、どうにも気になり作業が進まない。本来、何のために図面を引っ張り出したのかも忘れてしまい、市役所でこの資料を捜して頂いた方に連絡して「何か気になるんです」では、先方も困ってしまうどころか雲に包まれてしまい、「こっちの方こそなんだか気になって夜も眠れない」と逆に責められる始末。今思えば、あの時も私に無理矢理関係者にさせられてしまった皆さん。本当に御尽力頂きありがとうございました!

結局のところ、どうなったのか?市役所にお願いして水道局に直接図面を見せて貰うことになりました。水道局で図面を広げ、担当者と話をしている時に違和感の原因が分ったのです。それは、図面に書かれている年にはまだ市内に上水道が無かったのに「既設水道」とあったことだったのです。「何だ、そんな落ちか」と言わないで下さい。これはある意味で驚きだったのです。何がそんなに驚きなのか?決して図面が間違っていたというわけではありません。まだ市内に上水道が無かった時分に簡易水道とはいえ、私費で水道を引いていたのです!

あれ?何の話をしていたのでしょうか?思い出しました。設計者は誰なのか?ここに至るまでには、実はこの図面騒動がきっかけとなり、それ以外の資料を再確認したことから始まったのです。作業は至って簡単というか、私が思い付けることから始めました。それは、既に調べられていた高取家の年表に対して、更に新たに発見された、或いは、余り重要視されず一纏めにされていた資料内容を追加したのです。でも、その時点では設計者が誰なのか?それを考えようという契機には至らず、しばらく月日が流れるのでした。

次に、これらの図面や追加した年表を引っ張り出したのが何時だったかは正確には覚えていません。そのきっかけとなったのは、現在、大型バスも入れる程の駐車場になっている旧高取家住宅南西側の道向こうの敷地に、前身の居室棟(現在の居室棟が建設される前に使用されていた居室棟で、現在の居室棟が建設される際に取り壊された、或いは、部材が転用されたと伝えられていた)が移設されたとか、されなかったとかという情報を耳にした時でした。その時も水道関係の資料図面を引っ張り出し、更には、土地の登記簿関係の資料があることを知り、年表等の資料に追加作業を加えていました。

それと同じ頃、旧高取家の西側にかつてあった附属建物の基礎遺構を発掘調査して頂いておりました。そこで幾つかの遺物が発見されました。尤も、考古学の方々が期待するようなものなど全く無く、タイルや瓶、人形など明治以降のもの、正確に言えば、高取家の方々がこの地に足を踏み入れてからのものがほとんどでした。その中のタイルが当時としては上等で執事の建物に使用されていたのではないかと思われるものもありました。タイルの中には、前回お話ししたものも、幾つかこの時に発見されました。この時の私の記憶には、執事を雇えるだけでなく、執事のための住宅を建てるなんてすごい!という素朴な思いが残りました。

それからまた暫くして、その頃の記憶が私の中で薄れつつあった時のことです。市役所から思わぬ一報を受け、先に挙げた資料の数々が再び引っ張り出されるに至ったのです。それは洋々閣のサイトに登場した岡田時太郎所縁の方が市役所に電話してこられ、先程お話しした執事の建物に、といいますかこの建物のあった番地に自分のお爺さんだかが住んでいたというのです。そこで土地の登記簿の資料を再度見てみるとそれらしい名前があるのです。一部擦れていたために確証は得られませんでしたが・・・。

こうした様々な資料と現場で発見された遺物、各方面から集まってきた情報を個別に集積していただけでは相対的な繋がりが判らず、ただ纏めただけという結果になったかも知れません。しかしながら、タイミングといいますか、運といいますか、はたまた高取伊好氏の見えない糸に導かれたのかは判りません。私が思い付く拙い情報集積作業というより、ただ、旧高取家住宅に関係があると私自身が勝手に判断した事項を、上記の様なタイミングに恵まれて纏めることが出来た結果、設計者はひょっとして・・・と思うに至ったのです。

なぜ、それらの資料を纏めたことでそう思うに至ったか?それは非常に俗世的な発想です。高取伊好氏は当時、炭坑事業に一財を投じており借金苦で大変な時期でした。にも関わらず、あちこちに寄付をして、また、自邸を建設していました。では、工事関係者にどの様に手当を支払ったのか?私はその経過を先に挙げた土地の登記簿に見て取ったのです。土地の登記簿には設計者と思われる岡田時太郎、大工棟梁の吉田吉次郎らの名前が記載されており、しかも旧高取邸の底地や石垣等々の名義人になっているのです。私が思うに、「もしお代が払えなかったら、土地を代金代わりに支払うから心配するな。私の家の底地なんだから、逃げも隠れもしない」と言ったのか言わなかったのか。その後、土地名義はちゃんと高取伊好氏に変わったことから、無事にお代が払えたんだなぁと年表に記入しながら遠い過去に想いを馳せたのでした。

これらのことから設計者を岡田時太郎と断定することは、学術的にはかなり無理があるかも知れません。しかしながら、これは私の中の拙い記憶が生み出したお話。色々な資料を客観的に分析することは確かに重要かも知れません。ですが、そうした資料から当時に想いを馳せ、色々と昔話をして情報を提供して下さった方々との遣り取りからその想いに脚色して当時の物語を描き出すこともまた必要なことと思っています。そうした人間臭い物語を想い描くと、建物を修理していく中で出てくる不可解なことが、実はこの建物では多分当然のことなのかなと感じることもあるのです。

修理技術者としては未だ半人前の私が思う修理現場における修理技術者の立ち位置。それは人との繋がりが色々な情報を引き寄せ、人と出会うタイミングがそれらの情報を一つの物語に組み上げて行く。私たち修理技術者はそうした建物に関する様々な物語を紐解き、修理の一助として用い、そして最後に建物が持つ長大な物語の、ほんの僅かな一篇の物語となることではないかと思うのです。例え名前も痕跡も残らないものだとしても。

 

第3回を書き終えて

 書いているうちに話したい内容の方向性がずれてしまう。そうした拙い文章を3回も掲載させて頂くことになり、洋々閣の大河内女将には非常に感謝しております。今回は、いつになく真面目な?お話になったつもりですが、論文ならば落第点間違いなしというところでしょう。また、修理技術者としても空想癖が玉に瑕と言われそうです。建物を調べ、史料を掘り起こし、様々な方々に聞き取りをする(聞き取りが出来ない建物も多々ありますが)。人が創り上げるものである以上、何処かに人との繋がりを求めてしまうのは私だけでしょうか?建物を新築する際、設計者は施主の想いや希望を形にする者であると言えます。ならばもし修理技術者が、当時の施主や設計者の想いを紐解き、修理の設計をすることが出来るならば非常に良い修理に繋がるのではないか、と私は何時も思っています。 

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