ENGLISH updated: December 26, 2001
revised: February 21,2009   
追悼 ジャック・マイヨール
     
            ジャック・マイヨール自死
            玄海の冬浪こぞり悲しまん
                             
                                            2001.12.25  高橋睦郎



このページは、洋々閣のホームページ英語版の女将のGREETING 2000年9月号を、このたび亡くなられたジャック・マイヨール氏の追悼のために、補筆して日本語版にしたものです。
氏の訃報のあと、たくさんのかたから、優しいお言葉をいただきました。ともにジャックの死を悼んでいただくために、このページを追加いたします。上の弔句をくださいました高橋睦郎先生に御礼申し上げます。

                                            洋々閣 女将 大河内はるみ




ジャック・マイヨール氏 洋々閣にて1999年秋

"Hello, Harumi-san, I just dropped in to say hello."


ジャック・マイヨール氏は、いつも突然現れて私を驚かせました。お知り合いになってから8年ほどしかたちませんのに、どうもジャックは60年以上前から友達だったと思っているようでした。どうして?それが、私がここにこれから書こうとしていることです。

まず最初に、ご存じとは思いますが、念の為にこの世界的に有名な「イルカ人間」を簡単にご紹介します。
"The Big Blue"(Le Grand Bleu).という映画を覚えていらっしゃると思います。この映画はジャック・マイヨールの自伝にもとずいて作られたものです。ジャック・マイヨールは人類の歴史上初めて100メートルの閉息潜水(酸素ボンベを使用せず、息を止めて潜水すること)に成功した人です。
近年は彼は自然、海洋、イルカやクジラ、など、いろいろな分野で研究活動をしていました。彼は将来、人類が海へ帰ることの可能性を探っていると言っていました。最近の彼は、「海の哲学者」と自分のことを呼んでいました。
虹の松原の海岸線

ジャック・マイヨールにはファンが多くて、そのかたたちがダイバーとしてのジャックのことは私よりもよほど良くご存じでいらっしゃるでしょうから、ここではジャックと唐津との、過去と現在の関わりだけをお話します。
七つ釜

ジャック・マイヨールはフランス人建築家の二男として1927年に上海租界で生まれました。当時上海と長崎の間には定期航路があり、ジャックの一家は毎夏唐津の虹の松原で休暇を過ごしました。ジャックが最初に浅い海で潜ることを覚えたのは、6歳の時でした。そして、七つ釜で初めてイルカに出会い、この


東屋ホテル(1号館)昭和10年頃
ジャックの依頼でやっと探した写真。
今度会うときに渡すつもりでした。
間に合いませんでした。
ことが彼の一生を左右する原体験となります。



当時(昭和10年ごろ)虹の松原の中には外国人専用の木造のホテルがいくつかあり、リゾート地として賑わっていました。ジャックの一家は、「あずまやホテル」に逗留していました。あずまやホテルの主人西村氏の幼い息子がジャックの遊びともだちで、彼等は輝かしい少年の日々を満喫していました。
けれども1930年代後半は戦雲がたちこめ、日本の軍国主義はすべての西欧的なものを排除しました。ジャックの一家はその後日本にくることはなくなりました。

1971年、ジャック・マイヨールは76メーターという驚異的な素潜りの記録を樹立しますが、その年に唐津を再訪しています。そして、幸せだった幼い頃の記憶の断片をつなぎあわせようとしました。そこで数人の人に会っています。旧友との再会は果たせませんでした。遅すぎたのです。けれど、そのまた20年後に良き友人となる新しい出会いを得ています。中に、その当時はまだ若く、末席からジャックを眺めていたダイバーの高島篤志氏もいました。
その20数年後、NHKのテレビ番組制作のためジャック・マイヨールは再び唐津を訪れます。コーデイネーター広瀬智子さんの依頼で洋々閣でお宿をさせていただくことになり、私はジャックに出会い、また高島氏も再会します。高島氏は今や有名なダイバーでありまた海洋写真家ですが、その後のジャック・マイヨールの唐津訪問のたびに付き添って一緒に行動し、潜りました。
 
ジャックと私は一緒に彼の失われた思い出の糸口を探しました。私たちは古老たちをおたずねして、昔のことを探りました。必要な場合には私が通訳をつとめました。そして、そんなふうに一緒に60年前の記憶を辿っているうちに、まるで彼の大事な思い出を共有しているかのように語り合うようになったのです。60年前なんて、私、生まれてもおりませんでしたのに。
それ以来、唐津に戻るたびに彼は洋々閣へ現れるようになりました。近年はベッドの関係でホテルに泊まるようになっていましたが、自転車に乗ってヒョッコリ現れました。そのたびに、私一人を相手に大演説で、人間がいかに海を汚しているか、なぜもっと自然に対して敬意を払わないか、など、いつも激しく怒っていました。私が宿のしごとで忙しかろうがなんだろうが、お構い無しでした。74歳になる2001年には、再び74メートル潜るんだ、と、意気軒昂でした。
大河内はるみへのメモ 1994年
今年の7月に短い時間唐津に立ち寄られた時には、私はお会いしていません。高島氏によると、「寂しい」ともらしていらしたとか。体調も不良だったようです。


一昨年の秋、唐津湾に3頭のコビレゴンドウという小振りのクジラが迷い込んで大騒動になったことがありました。ちょうどジャックは唐津に来ていて、このままではクジラは死んでしまうから保護しようと追いかけまわす人々に激怒し、「クジラにかまうな、死ぬものなら死なせろ」と叫び続け、通訳しろといわれた私は、その場の雰囲気ではそんな勇気はなくて、ほんとに困ったのでした。でも、今となっては、あの時ちゃんと通訳して「死なせろ」と一緒に叫べばよかった、と悔やまれます。
「救出」されたクジラ2頭(1頭は行方不明)は水族館で「保護」されていましたが、今年の11月末にオスのゴンタが死んだというニュースが流れて悲しい気がし、イタリアにいるジャックはどうしているかと、チラと思ったりしました。
そして、12月24日に彼が自殺しているのが発見されたというニュースを知りました。

私は混乱した頭でいろいろ考えます。でも、取り返しはつかないのです。海の英雄は、海に帰ったと思わなければいけないのでしょう。
「死ぬものなら、死なせろ(If they are going to die, let them die!)」と叫んでいたジャック・マイヨールが、私が見た最後の姿です。
 
ご冥福をいのります。      

   *英語版のGREETING #23にジャック・マイヨールのお葬式のことを書いています。(2002.2.1追加)



2009年2月21日 追記
さいたまの菅 勝治さんからこのページを読んで作られた歌を送っていただきました。
昨年出来た映画「Blue Symphony」も見て下さったそうです。この映画には私や唐津市民でジャック・マイヨールとかかわりのあった人たちがたくさん出ています。どこかの小劇場で機会があったらご覧いただけると幸いです。
 
「ka-ra-tsu」

ある日佐賀は唐津の小さな港町に
クジラが3頭迷い込んできたそうで
そりゃあもうみんな大騒ぎで
なんとかクジラを助けようと右往左往

浅い海では不自由なクジラたち
だんだん弱っていくのだが
He said
If they are going to die,Let them die

2頭のクジラは助けられ?水族館で囚われの身に
クジラの幸せは僕らには きっと 絶対 わからないけど
He said
If they are going to die,Let them die

水族館のクジラ ゴンタとハナは もう海には絶対、絶対帰れない
遊んだ海を見る事なく 水族館でその命を終えたから
He said
If they are going to die,Let them die


                                                            
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