#9 平成12年12月  


永井敬二の世界---1000脚の椅子

 
  洋々閣の先代女将が言っておりました。「ケイ坊は、小さい時からへんな子だったよ。子どものくせに、じいさんみたいなものが好きでね。しょっちゅう土蔵の中に入って勝手に古いものを引っ張り出して、悦に入っていたのよ」。特に、もう使い様のないようなものを自分なりに修理したり、他のものに用途変更してみたり、とにかくへんなオジン坊やだったそうな....。

 半分洋々閣で育ったような従兄弟、永井敬二氏が、後にこんな、エライというか、立派というか、やっぱりヘンナな、というか、イス男になろうとは、敬二の伯父である洋々閣先代も草葉のかげで苦笑しているでしょう。

 だいたい、イスがいくら好きたって、1脚何十万円もする、コンテンポラリーアートみたいな、めったにないイスを、執念深く世界中捜し求めて1000脚近くも集めてしまう物好きがいるでしょうか。しかも、お金持ちならイザシラズ、安サラリーマンだったのですから。(失礼!)

 この奇蹟的な変なイスのコレクターは、その北欧家具の日本への紹介における功績を評価されて、日本人としては初めてデンマークの家具大賞を受賞したのです。2年前のことでした。
  
 ここに写真をお見せしますのは、毎年彼が友人に出しているクリスマスカードの、ある年の分です。たくさんのイスが写っていますでしょう。その一脚一脚が、分かる人が見ると咽喉から手が出るようなシロモノらしいのです。こんなカードを毎年出すのです。

私はため息をつきながら敬二さんに言います。「あのねえ、イスもいいけどたいがい分にして、まともに落ち着いた生活をしたら?」

そういいながら、私にはわかっているのです。この人がイスなしでは生きていけないことを。
 
 洋々閣の家具や内装には、彼の手がかかっています。シンプルを旨とする彼の美学は、洋々閣の古いけれどもどこかモダンだと評される雰囲気を作り上げています。 この人の紹介で知り合った建築家柿沼守利先生がこの20年来洋々閣の改修を手がけてくださっていますが、柿沼先生もまたシンプルを第一義とされるかたですので、趣味が悪くてなんでもごちゃごちゃ飾ってしまう私はいつも叱られています。もし貴方様が洋々閣にお見えになって、あちこちにそぐわないようなものが並んでいたら、それはワタクシの仕業。ワタクシときたら、お客様のお子様が作ってくださった折り紙とか、道で拾った鳥の羽とか、なーんでも並べてしまうのです。困ったもんだ。

 ここに、敬二さんを脅迫して書かせた作文を載せます。お楽しみくださいませ。そして、洋々閣を訪問して、あちこち見て、これは女将の趣味だな、とか、これは永井敬二の世界だろう、とか、見分けて楽しんでください。どれだけあたりますでしょうね。

「子どもの頃の思い出」   永井敬二

 洋々閣の敷地内で生まれ育った僕は、子どもの頃のスリルのある遊び場所は材木小屋だった。伯父の普請道楽もあって、古い建物のどこかをいつも改装工事が行われていたが、解体するときもあたかも組立て式のようにきれいに分解され、次の出番を待っているようにその小屋に保存されていた。そこではいつも大工さんが仕事をしていて、金魚の糞のようについてまわっていた僕は夕刻大工さんが帰った後にこっそりと道具箱を開けて大工の真似事をして、翌日必ず叱られるという繰り返しだった。いくら怒られても興味が薄れず、やっぱり大工さんにまとわりついていた。

伯父は方眼紙に改装の図面やディテールをスケッチしていて、大工さんとよく打ち合わせをしていた。そんな仕事が終わったあとは、毎晩のように晩酌していて、僕は前に座らされて建物の講釈をl聞かされたものだった。数奇屋とは何ぞや、とか、千利休がどうだとか、僕には意味もわからず、面白いはずもなく、いやでたまらず逃げ出したかったが、伯父の書棚には建築や室内装飾の意匠の本もたくさん並んでいて、現在でも発行されているモダンリビングの雑誌も揃っているし、それらの本を見せてもらうのは好きだった。

 そんな環境で育った僕が後々それに関係ある仕事に就くようになったのは不思議な気がする。
 今考えて見ると当時の洋々閣にはダンスホールもあって、インテリアも家具も照明もアールデコ様式で統一されていて、もちろんその頃の僕にはアールデコの何たるかは全く解っていなかったのだが、多分伯父のデザインによるものだったろうと思う。その後サロンになった時には、当時雑誌などで活躍されていた岡本敦さんに製作を依頼した斬新なるイージーチェアがならんでいて、モダンデザインがちょっぴり感じられ、製作を依頼したプロセスなどを聞かされたものだった。多分僕が椅子のデザインに興味を持ち始めたのもこの頃だったような気がする。

 こんな、なかなか経験できない環境で育ち、実社会でインテリアの仕事に携わるようになったが、洋々閣も従兄の代になり、改装工事の相談を受けるようになって、建築家の柿沼守利氏と共に計画に参加して建物の内部をプランするときに、伯父の思想のようなものを感じつつ、その当時の思い出が蘇り、現在では懐かしさと同時に、あの頃いやでたまらなかった伯父の講釈や環境にいかに感化され影響を受けていたか、つくづくと感じるこの頃です。



 なにーっ、岡本何とかという人にわざわざ製作依頼したイージーチェアー?それって、どこにあるのよ?もしかして、20年ほど前に捨てちゃった、あの、へんなイス...?...あのね、敬二さん、そんなこと早く教えてくれなくちゃ、だめじゃない!あ〜あ、残念。

 そういうわけで、皆様、そのイスももうないし、サロンももうありません。平成3年の台風被害でその棟は改装されました。今はきれいになったとはいえ、敬二さんと一緒に、私も失ったものを惜しみつつ、今年はこれでお別れ致します。

 どうぞ2001年がみなさまにとりまして、素晴らしい年であり、21世紀が人類にとりまして、平和で安全な100年でありますようにお祈り致します。                     かしこ
 
  洋々閣 女将
   大河内はるみ


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