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唐津くんち雑記帳 | |||||||||||
唐津供日 海ナぞこの秋銹びにけり沖鱸 (うなぞこの あき さびにけり おきすずき) 高橋睦郎 上の句は、平成十年四月発行の高橋睦郎句集『賚』(たまもの)の巻頭句で、洋々閣でくんちの饗応のアラを詠まれたものです。おきすずき、って、魚のアラのことだそうです。アラは魚扁に荒と書く、とばかりずーっと思ってきましたのに、ワープロの中にそんな字ないんです。困りました。それで、説明は苦手ですから、引用いたします。『居酒屋野郎ナニワブシ』で新潮新人賞を受けられた人気作家秋山鉄さんが、昨年のくんちに取材に見えて、今年2000年1月号の小説新潮に『旅は青空』という連載の第一回として書かれた『唐津へヤマば見ぎゃ行く』という紀行文から、アラに関する記述の、ごく一部です。なお、ヤマば、は、曳き山を、のことで、見ぎゃ行く、は、見に行く、のことです。 (前略) くんち料理は、「三月だおれ」(三ヶ月の収入を一日で使いはたす意)と呼ばれることからもわかるように、その豪華さ質、量ともに破格。中でも特筆すべきは、何といってもアラの姿煮だ。とにかく大きい。小さいものでも軽く六十センチは越えるものを丸ごと煮つける。くんち料理に定型はないようだが、このアラ煮だけは外せないもののようだ。言わば、看板である。料理というよりも生贄(いけにえ)のおもむきがある。煮るにあたっては、ふつうの大鍋では太刀打ちできない。鉄の舟のようなので、五時間から十時間かけて煮る。一般の家庭にそんなものはないので、その工程のみ、外注に出す家も多い。内臓は、あらかじめ抜き取って別の料理として独立させる。空洞になった腹には大根や、ゆで玉子を詰める。唐辛子を入れるお宅もある。その煮汁をかけていただく。 そのアラも近年は漁獲量の減少、価格の高騰で入手難になりつつあるという。 ちなみに、アラはしばしばクエと混同されるが、同一のものではない。正しくは、アラはスズキ目スズキ科アラ属であり、クエはスズキ目ハタ科マハタ属である、と魚類図鑑にはある。(後略) まあ、秋山センセ、ご説明ありがとうございました。センセったら、この紀行文に、アラのことたくさん書いていらっしゃるのです。 「つく田」さんのアラ、大原さんのアラ、平野さんのアラ...。その他のおごちそうの事も。アラアラ、私としたことが、おくんちの説明は書かないで、食べるもののことばかり。まあ、いいか。くんちの説明は、こちらから見ていただいて、納得してくださいませ。このページは、食いしん坊専用といたしましょう。ちなみに、センセと書いているときには、大阪弁のアクセントでお読みください。 もっとも、アラをくんちに出すのが昔からのしきたりか、というと、疑問視する声もあります。二百年近い唐津供日の伝統の中には、やはり時代の波をかぶってしまったものもあるのではないでしょうか。民俗学の分野で研究もされているようですが、ここは、洋々閣におけるこの三十年のおくんちに限定いたしましょう。 昨年(平成11年)の洋々閣の唐津くんちを、秋山センセが描写してくださっています。自分が登場して気恥ずかしいのですが、厚かましく書きますので、我慢してお読みください。 ◇ 午後七時。《洋々閣》---。 宿泊客が座敷に招待される。法被姿の地元の人も加わる。樽酒、大皿の数々、そしてアラ。これまたでかい。料理をはさんで、両側に座布団が並ぶ。 十年、二十年来の常連はザラ。顔見知りばかりらしい。打ち解けた会話がそこここで交わされている。 私のすぐ隣に、外国人夫婦。オーストラリアから来たという。日本語ができない。女将さんがお相手をされる。和服姿の物腰柔らかな方が、英語をあやつっておられる。さりげないのがカッコいい。あこがれてしまう。私は日本語がやっとの人間だ。やれるとすれば、アイ・ライク・ア・コアーラとか何とか言い、あとは笑ってごまかすくらいが関の山だろう。黙っていた。 くんち料理の場では、そこに居合わせた者は全員平等というルールである。シャチョーもセンセーもない。酔うたモン勝ちとも言えるかもしれない。皆さんが自由に出入りされるので、顔ぶれがひっきりなしに変わる。活発な人はあっちに行ったりこっちに来たりと動きまわっている。(後略) この後も秋山センセの熱気あふれる文章は続くのですが、小説新潮を丸ごと写すわけにもいきませんでしょうから、この辺で引用をやめます。お読みになりたいかたは、図書館ででも、どうぞ。唐津の方で、返してくださるかたには、うちのをお貸ししてもいいのですけれど。 今回の女将ご挨拶「くんち雑記帳」は、月初めに全部は書かずに、この続きは、くんちの後に、(余力があれば)、書き足しましょう。ぶったおれていれば、来年になりますけど。 皆様、エンヤー、エンヤー、ヨイサー、ヨイサーと、曳き山なみに重い私を、叱咤激励してくださいませね。続く(予定)。 続:11月5日 記:皆様、トライアスロンのように過酷な、唐津くんちの三日間をサバイバルして3キロ痩せた(ホントカナ?)、洋々閣女将です。戦い済んで日が暮れて〜、とハスキーに歌いながら、余裕シャクシャクでこのキーボードに向かっているように思われるでしょうが、実は痛い膝と腰にピップエレキバンを貼って頑張っております。 2000年という記念すべき年の唐津くんちを記録したくて、読む方にはご迷惑と知りつつ、ブリーフィングいたします。 11月2日 宵ヤマの晩: 佐藤隆介氏は、何がなんでも十五番ヤマ「潮吹く鯨ヤマ」を二十三世紀までには作る、と宣言。ハチマキのデザインまで、江戸手ぬぐいの「鯨」(真っ黒に眼を一個白抜きという粋なもの)に決定。ハッピのデザインは、検討中。その晩に、「外様具美(とざまぐみ)」の結団式を行い、気勢を上げられました。折りから季節はずれの20号台風が大雨をもたらし、唐津っ子の肝を冷やしましたが、宵ヤマ巡行の出発時間寸前に雨は上がり、強風をついて宵ヤマは進みました。さすが! 11月3日 快晴。街は大賑わい。夜の洋々閣は、波瀾含み。前出の秋山センセ(当然、タイガース)が、ジャイアンツ好きのオジサマと激論!「なんで巨人やねん。ジャイアンツやないか」と。野球はなんにもわからない女将も、なぜか、うんうん、とうなずいていました。ちなみに私は野球も相撲も、そのとき負けているほうのファンであります。 11月4日 同じく快晴、暑いほどの日差し。夜の洋々閣のくんち座敷は、ちょうど紫綬褒賞の受賞が報じられたばかりの高橋睦郎先生の祝賀会に盛り上り、久留米市の文化奨励賞を受賞されたばかりの声楽家中尾陸美(なかおむつみ)さんのソプラノがお祝いに献じられ、その後はさいわいにいつものように蛮声で歌う人とてこれなく、洋々閣としては歴史始まって以来の上品なるおくんちでありました。宴は夜中の2時で終了。年々早くなりますね。年寄り女将を気遣ってのことか。そのあと、少し片付けて、ピップのお世話になって休んだ、という次第。 おそまつながら、二十世紀最後の唐津くんちの顛末を一席。 それでは、みなさん、サイナラ。 また来月。 |
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この色は、くんちに曳き山を曳く人達が履く草履の鼻緒の色です。 | |||||||||||
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