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2001.12.24挿入 畏れ多いのですが、平成13年12月23日の天皇陛下の御誕生日の記者会見でのお発言の要旨より抜粋します。(12.24朝日新聞より) 「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招聘された人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁樂部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。私自身(天皇陛下)としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。 しかし残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。」 |
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みなさま、こんにちは。 21世紀の最初の一年は、大きな衝撃と恐怖のうちに暮れようとしていますが、みなさま、ご安全におすごしのことと存じます。 12月になりますと、わたくしは亡き父を偲んで静かな追憶にひたります。父は6年前の12月8日に急逝しました。その日の夕方まで元気でした。年が明けたら90歳のお祝いをする予定でした。 父は明治39年に名護屋村(現在は鎮西町)で生まれました。唐津中学に行くために、唐津に下宿し、土曜日には名護屋まで歩いて帰ったそうです。何時間かかかりますが、途中の峠に「山口茶屋」というお店があって、そこでお団子や、うどんを食べるのが楽しみだったそうです。そのお店は、80年経った今も健在です。団子やうどんはないようですが、お菓子やジュースは売ってあります。私はお墓参りに名護屋へ行く時に山口茶屋の前を通る度に、かすりの着物を着た父の中学生姿を思い浮かべます。いつの日かまた漱石の「草枕」みたいな峠の茶店を再開していただいたら、どんなにうれしいことでしょう。 そんなわけで、12月にはこのページに鎮西町のことを書きたいと思っていました。名護屋城の事など何度か書きましたので、今回は視点を変えて「武寧王伝説」でまいります。 昨年(2000年)9月10日の西日本新聞の佐賀版のトップには、「百済・武寧王は佐賀・加唐島生まれ」の見だしが踊りました。まずはその引用から。 「書紀は正確」 韓国初の論文 日韓交流の原点に光 【ソウル9日 田代俊一郎】 四世紀から七世紀にかけて朝鮮半島南西部で栄えた百済の第二十五代王、武寧王(ムリョンワン)の出生地は佐賀県鎮西町加唐島(かからしま)とする論文が、今月(2000年9月)発売の韓国の史学雑誌「史学研究」に発表された。慶北大史学科の文G鉉教授が同王の墓誌銘(正式には賣地券)などから結論付けた。日本書紀は出生地を「加唐島」と記しているが、韓国の歴史書は反日感情もあって出生地については一切触れておらず、初めて韓国で言及した論文として注目を集めている。また、日韓交流の原点に光を当てる意味でも貴重な論文になりそうだ。 文教授は韓国でも有名な歴史学者で、日本書紀の研究家としても知られる。同教授の論拠は武寧王の墓誌銘だ。王といえども土地神から土地を購入しなければならないという道教思想に基づくものが賣地券で、内容は実質的な墓誌銘。1971年、公州市で未盗掘のまま発見された同王の墓内から見つかった。 墓誌銘には出生地についての記述はないが、523年の没年日と、六十二歳で死亡したことが記されていた。これは、日本書紀の記述とまったく同じだ。文教授は昨年7月、加唐島を現地調査した上で、「日本書紀の記述が正確だ」として、出生地は「加唐島」との結論をを出した。 当時、倭国(日本)と百済の交流は活発で加唐島は往来船のコースにあたり、日本に行く途中、母親がこの島で出産した、という。 文教授は「日本書紀の記述は信頼性に欠ける部分もあるが、百済の記述は正確だ。日本に渡来した百済人が日本書紀の編集に参加していたのではないか。韓国の学者からの反発もあるが、学者としての仕事から発表した」と話す。 この論文は学術的な意味だけでなく、古代からの日韓交流のシンボルとしても今後、武寧王が話題になりそうだ。 それでは、次に、日本書紀を読んで見ましょう・・・・・と、私はふるいたちました。 雄略二年[458]「秋七月、百濟池津媛、違天皇將幸、婬於石川楯。【舊本云、石河股合首祖楯。】天皇大怒、詔大伴室屋大連、使來目部張夫婦四支於木、置假[广技]上、以火焼死。【百濟新撰云、己巳年[429]、蓋鹵王立。天皇遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟装飾慕尼夫人女、曰適稽女郎。貢進於天皇。】」 雄略五年[461]「夏四月、百濟加須利君、【蓋鹵王也。】飛聞池津媛之所燔殺、【適稽女郎也】而籌議曰、昔貢女人爲采女。而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。乃告其弟軍君【昆支也】曰、汝宜往日本、以事天皇。軍君對曰、上君之命不可奉違。願賜君婦、而後奉遣。加須利君、即以孕婦嫁與軍君曰、我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、随至何處、速令送國。遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是、軍君即以一船、送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰曰主嶋也。秋七月軍君入京。既而有五子。【百濟新撰云、辛丑年[461]、蓋鹵王遣弟昆支君、向大倭、侍天王。以脩兄王之好也。】」 「是歳、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。【百濟新撰云、末多王無道、暴虐百姓。國人共除。武寧王立。諱斯麻王。是[王昆]支王子之子。即末多王異母兄也。[王昆]支向倭。時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京。産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案、嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是[王昆]支王之子也。此曰異母兄、未詳也。】」 ウ〜ン・・・・・・・・・・・とてもとても、私には読めません。ギブアップ。幸い、鎮西町史にそのことが触れてありますので、ここでも、引用です。 鎮西町史(p284) 加唐島と武寧王 『日本書紀』には、倭の五王の最後の武王、つまり雄略天皇の段に、鎮西町とかかわりがあるのではないかと考えられる記事がある。すなわち、雄略天皇五年の条の、百済の武寧王の出生にまつわる説話である。 五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を結び、日本に人質を送っていた。ところが雄略天皇二年、人質であった池津媛は不義を犯したことをとがめられて処刑された。このことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の蓋鹵王(こうろおう)(加須利君かすりのきみ)は、その弟軍君(こにきし)(昆支こにき)を日本におくることにした。そのとき、王は軍君の要望にこたえて側室の一人を与えたが、彼女はすでに懐妊し、産み月も近かった。王は、途中で男の子が生まれたなら、ただちにその子を送り返すようにといった。軍君が筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、側室は男児を産み落とした。島で生まれたので男児は「島君せまきし」と名づけられ、百済に送り返された。この男児は成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。それ故に百済の人は、各羅島を主島(にりむせま)とよんでいる、というものである。 「各羅島」が果して現在のどの島なのか、確実なことはわからないが、当地方では江戸期ごろから加唐島であるといわれてきた。『日本書紀』の解説は、どれも鎮西町加唐島であろうとしている。 四世紀から五世紀にかけて、日本はたびたび軍勢を朝鮮南部の弁韓(任那)に派遣して拠点を確保し、また、百済・新羅・高句麗に介入してこれらを勢力下におこうとした。そのための出航地がどこであったのか、『日本書紀』には書かれていない。しかし、当時の造船能力や航海技術を考えると、玄界灘を安全に渡海できるところは、鎮西町をふくむ東松浦半島であったと考えられる。とくに波戸岬の目の前には加部島(かべしま)・加唐島・松島が、少し離れて小川島・馬渡島(まだらしま)が点在して、外海の荒波をさける格好の船泊りである。また、海上安全の守護神とされる湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女神を祭る田島神社が加部島に鎮座しているのも、古代における朝鮮との通交を考えると肯定できる。
武寧王を葬った墓陵は、1971年(昭和46年)忠清北道公州市宋山里で発見された。多数の副葬品とともに墓誌が発見され、武寧王とその王妃の合葬陵であることが確認された。ちなみに、墓誌によれば、武寧王は462年に生まれ、523年(継体天皇17年)に亡くなった。 加唐島は、玄界灘に浮かぶ小さな島で、広さは2・81平方キロ、人口は300人足らず、椿の美しい島です。島へ渡るには、呼子港から「かから丸」(45トン、定員90人)が一日4往復運行しています。距離は7キロほど、所要時間は20分です。 来年2002年1月14日には、武寧王交流鎮西町実行委員会の主催、鎮西町教育委員会の共催により、「百済武寧王、生誕海峡シンポジウム」が開催され、加唐島をめぐる日韓歴史文化交流を語り合われます。基調講演は、上記の文教授ですし、考古学の西谷教授、そのほかの方の人選がすすんでいるようです。シンポジウムは14時から佐賀県立名護屋城博物館ホールで行われますが、午前中に現地見学会があります。武寧王生誕伝説のオビヤ浦の洞穴や、産湯を使ったとされる井戸などを、案内されると思います。オビヤ浦はまた、新羅に渡る神功皇后の懐妊の帯祝いの伝承のあるところでもあります。
今、加唐島の人々は熱い思いで武寧王と向き合おうとしておられます。私もまた、鎮西町にルーツを持つものの一人として、同じ思いを共有します。 大和朝廷に人質として差し出されたにもかかわらず、みかどのお側に上がるのを拒んで石川楯(いしかわのたて)と密通し、二人ながら火刑に処された百済の池津媛や、百済王の子をみごもりながら日本に送られ、途上で後の武寧王となる美しい男児を産んだ名の知れていない女性の悲しみを思うとき、椿の花は悲痛な血の色に見えます。1145年に編纂された最古の朝鮮半島の正史『三国史記』によると、武寧王は丈高く容貌が美しく性質が情け深かったとあるそうです。 鎮西町名護屋の父の墓は、玄界灘の風の吹き付ける高台にあって、目の前に加唐島も見えます。墓石の後ろには、大きな藪椿がこんもりとしげり、春ともなると、父の墓の上にポタポタと、真っ赤な散華を撒き散らします。七回忌の今月、私は特別の思いでその島を眺めました。 玄界灘は古来より民族の往来とともに文明や文化を運んだ輝かしい海ですが、同時に多くの松浦佐用姫たちや武寧王の母たちの悲しみも見てきたことでしょう。どうぞその悲しみが椿の花の手向けにより、浄化されますように。 今回は、鎮西町教育委員会の山口晃課長様、鎮西町観光協会の坂口孝徳事務局長様に、資料提供など、大変お世話になりました。御礼を申し上げます。シポジウムが盛会でありますように、お祈りいたします。 来年は平和なよい年になりますように。 またお待ちしております。 |
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