くんち草履
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十番(平野町)
上杉謙信の兜(明治2年制作)
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九番(木綿町)
武田信玄の兜(元治元年制作)
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洋々閣のあら |
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唐津くんちとは何か。
唐津くんちの
真骨頂は
どこにあるか。
そのすべてを知り
味わい尽くすには
洋々閣に三日三晩
泊まるしかない。
鉢山亭 虎魚(佐藤隆介)
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そろそろ、およそ二十年。唐津くんちに通い続けていることになる。われながら酔狂。
(なんで…何に惹かれて…) と、唐津くんちが迫ってくるたびに、一度は考える。まさに酔狂。
十四基の曳山がある町に生まれ、「エンヤ、エンヤァ」の掛声を聞きながら育った若者たちが、毎年、何が何でもおくんちには故郷へ帰ってくるのはわかる。
それは多分、自分のルーツを確認するためだ。人間、生涯流浪の旅。生まれた日から死ぬまで、人の一生は旅である。だれでも本能的にそのことを知っている。だからこそ己れのルーツにこだわる。根無し草はあまりにも寂しすぎる。
では、お前のルーツは何処なのだ…と、自分に尋いてみた。「出身は?」と問われるたびに一瞬迷う。生まれた土地ということなら、東京。しかも人間稼業六十五年のうち五十五年は東京暮らしだ。
それでも「東京です」と、答えられない。終戦前年に疎開児童として父の郷里に移り、そのまま高校を出るまで越後高田で育っているからである。私の精神形成は雪国であって東京ではない。だから口が曲がっても「東京人です」とはいえない。
こういう中途半端な人間にとって、「おくんちには、何があろうと唐津へ帰って、ヤマを曳くぞ」といえる若者たちはうらやましい限りだ。毎年、同じ唐津くんちの宵山や引き入れや引き出しを見て、自分とは元来縁もゆかりもない土地の祭りに、何故感動してしまうのか…自分でも不思議というほかはない。結局、その答えを知りたくて、通い続けているのだろうか。
自分とは縁もゆかりもないと書いたが、強いてこじつければ、平野町の十番曳山「上杉謙信の兜」はまァ私にとって身内のような存在である。わが母校・高田高校の校歌は高名な詩人・相馬御風の詩だが、そこには郷土の偉人謙信公の遺徳が誇らかに謳われている。
そういうことから例年、十番曳山にはどうしても外野席の応援団として熱が入ってしまうわけで、ときとして曳子の連中の声が小さいと、つい「しっかりしろ! もっと大声を出せ!」と、のどを嗄らしてしまう。
九番曳山が宿敵・武田信玄の兜だから、なおさらのことである。信玄にだけは負けるわけにはいかない。越後高田に縁のある人間ならだれでも知っている唄(題名は忘れた)の一節に、こうある。
〈信濃川中島 謙信公がなけりゃ ただの河原だ 石原だ そうだ そうだ そうだ その意気だ その心意気―
平野町の連中にこの唄を教えて(多分知らないだろうと思うから…)、信玄何するものぞと気勢をあげてもらおう、と思ったりするが、所詮こちらは外様、余計なお世話は慎まねばならぬとすぐに自戒する。
それに十四基の曳山のほとんど全部が、いまや“他人事”ではなくなっている。それぞれの町で、いろいろなお宅に招かれ、押しかけ、すっかり“身内”の気分になって、ご馳走に預かっているからである。
唐津くんちの唐津くんちたる所以は、正月用の費用を全部前借りして、この三日間のもてなしに使ってしまい、当然の結果として正月は何もせずにひっそりと過ごす…という入れ込みようにある。
唐津のおくんち料理の華は何といっても豪快なあらの姿煮だ。初めてこの大魚を見たときは仰天した。体長一m、体重三十sを超える大物もあるあらは、魚というよりはむしろ“海の獣”と呼びたい迫力で、むろん箸など受けつけるはずもなく、ナイフで削り取って頑張るその味は魚より獣肉に近い。
最初の何年間かは唐津くんちでは必ずあらにかぶりついて喜んでいた。それがいつしか変わって、いまは白いんげんの煮豆や山くらげの炒め物や菊花蕪(かぶら)の甘酢に箸が出る。
いつか聞いた話では、あらはキロ一万円を超えるという高価な魚である。だからあらなどとても出せないという家もある。そういう家ではそれなりに精一杯の工夫をして、それぞれ流のご馳走を調える。それが煮しめだったりカレーライスだったりして、これが決まって涙が出るほどうまい。
馳走は奔走と同義で、もてなしのために材料を探し求めて走り回る意。高価な珍しいものが尊いのではなく、走り回るその心入れこそが値打ちなのだ。おくんちの唐津で毎年そのことを改めて思い知る。
唐津っ子は、おくんちが終わると、祭りの間に使われた割箸の数を数えて前の年より多ければ喜び、少なければ口惜しがるという。
それを聞いたときに思った。「口福」とは、受ける側よりも与える側にこそ一層大きいものかもしれない、と。
受け取るよりも与えることに歓びを感じる祭りが唐津くんちだとしたら、これはまさに“平和”と“共存”のシンボルといってもよい。国際情勢がキナ臭くなっている。テロも許し難いが、報復を口実に戦争を仕掛ける側もさらに許し難い。彼奴らには「ご馳走好きのヤマキチ連中」の爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。
佐藤隆介
1936年東京生まれ。 東京大学卒業後、広告代理店のコピ-ライターを経て、故池波正太郎の書生をつとめる。 現在、亡師ゆずりの粋と洗練を伝える数少ない文筆家として、広告や雑誌で活躍。 食と酒、焼き物に造詣が深い。 編著に「梅安料理ごよみ」(講談社文庫)、著書に「うまいもの職人帖」(文芸春秋)、「鬼平先生流 男の作法、大人の嗜み」(講談社)、「鬼平先生流 旅の拘り、男の心得」等がある。
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