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菜の花忌 司馬遼太郎先生と唐津 |
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たった一度お目にかかっただけなのに、強烈な印象で生涯忘れ得ない人ってあるものですね。 司馬遼太郎先生がそうでした。洋々閣へは、たった一度お出でになっただけです。あの司馬先生がお出でになるというので緊張して一生懸命おご馳走をだしましたけれども、どうも食べるものについてはご興味がないようでした。おいしい、とも、この魚はなんですか、ともおっしゃらずに、この辺りではどういう葬式をするか、とか、韓国にたいしてどういうふうに思っているかとか、次々に質問をなさいました。 その後は騎馬民族の話や、この唐津の名の「唐」は韓、加羅であり、外国を意味する、とか、ここに大陸や半島からどういう文化がはいってきたか、韓半島の、いつも大国に蹂躙されてきた歴史や風土によって培われた民族性などについて、とても熱心に語ってくださいました。ちょうど『街道をゆく』のシリーズで肥前の諸街道をご取材中でした。今日見ていらした肥前唐津の印象をまとめていらっしゃるようなお口振りで、時々傍らのみどり夫人を振りかえって人名、地名、年号などのデータを確かめていらっしゃいました。 眼鏡の下の目はあくまでもやさしく、子どもに言って聞かせるように噛み砕いて話してくださいました。真っ白なおぐしの分け目から透けるピンクの地肌が印象的でした。 私が驚いた事の一つは、みどり夫人のデータベースとしての頭脳です。決して口をはさまれず、異論も唱えられないのですが、データを完全に暗記しておられて、先生が話の途中でチラと顔をみられると、小声でスッと必要な答えをだされて、先生の話はよどむことなく続くのです。その日お話下さった事の一部が『街道をゆく』の唐津の部分に出ますから、引用させていただきます。このお話を直接肉声でお聞きしたことの感動をお伝えできればどんなにいいでしょうか。 『街道をゆく』十一 虹の松原 肥前の諸街道 三 より 糸島半島を離れて、ふたたび唐津街道(国道202号)に出た。 沿岸づたいに西にむかうと、やがて唐津湾の東端にさしかかる。東端に包石という地名があり、ここで筑前国がおわり、肥前の国がはじまることになる。 肥前のなかでも、古代でいう末羅(古事記)の国はこの唐津湾から平戸島の島々をふくめるのであろう。『魏志』でいう末盧国である。のちに、松浦の文字をあてる。 ついでながら「ら」というのはおそらく、古代北九州で通用した言語のなかで「国」をさすことばではなかったかと思われる。 むしろその言葉の本場は古代朝鮮―いわゆる三国以前―にその南端地域にあった無数の小国家群の名称であろう。そのうち有名な国名としてはいまの釜山付近にあった加羅である。のち日本語の中で単に外国をあらわすことば(カラ・韓・唐)として発展してゆくことを思えば、古代、このマツラあたりと加羅(伽羅)の関係はよほど深かったもであろう。唐津湾の唐(から)は、本来、朝鮮の韓(から)だったにちがいない。ここから、いまでも釜山まではちかい。有史以前のマツラの人々が、 「ちょっと加羅へ行ってくる」 といって刳舟(くりぶね)に乗った海外(から)とは、要するにいまの釜山のことであった。九州の浦々では二十世紀に入ってからでも、海外への出稼ぎ婦人のことをカラユキサンという。 三国以前の朝鮮南端の小国家(部族国家)群には、阿羅(あら)、多羅(たら)、草羅(そうら)などといった国名がある。それに、古代朝鮮においてかすかに朝鮮本土に対し別国をなしていたかの観のある済州島は、耽羅国(たんらこく)とよばれていた。 これら古代朝鮮の「羅」のむれに対し、玄界灘をへだてて、肥前沿岸に末羅国があったことをおもうと、唐津湾はその時代ではよほど重要な土地だったにちがいない。
旅館をやっていてうれしいことは、色々な土地からの色々なお客様にお会いできて、行かなくてもその土地に親しみが持てる事ですが、司馬先生に伺ったお話は、時空を超えて壮大な歴史観であり、望外の喜びでした。 三月は菜の花の季節。司馬先生のご命日は2月12日(1996年)ですが、菜の花がお好きだったそうで、菜の花忌と呼ばれています。 菜の花の黄なるあかりにうち伏してまた哭かむとぞわが戀ひむとぞ 藤井常世 『草のたてがみ』より |
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