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日本近代建築の夜明け_高橋是清と辰野金吾、曾禰達蔵 |
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建築探偵で有名な東京大学教授の藤森照信先生は、高取邸(国指定重要文化財の近代和風建築、「旧高取家住宅」)の関係もあってしょっちゅう唐津においで下さいますが、高取邸の調査の段階から私は大ファンになりました。藤森節とでもいうべき熱弁で、口角泡をとばす議論を(ほぼ一人で)展開されます。涙がでるほどおかしい事が多く、先生がお泊まりになった翌日は顔のしわがかなり増えているようなのです。 藤森先生が唐津をあだやおろかに思われない理由は、辰野金吾(たつのきんご)、曽禰達蔵(そねたつぞう)、村野藤吾(むらのとうご)という、建築界の大物が唐津出身であるということで、思い入れがひとしおお強いのだろうと思います。 辰野博士が煉瓦がお好きだったことは当然として、新しく日本に入ってきた、当時ベトンと呼ばれたコンクリートになかなかなじまれなかったご様子を、藤森先生はまるで見ていたようにおっしゃるものですから、郷土の大先達の辰野博士が、なんだか自分のおじい様みたいに親しみを持って考えられたりします。村野藤吾に関しては、ここ東唐津(昔は満島と呼ばれていました)の漁師村の乳母の実家で12才まで育たれたらしく、その家を見つけ出したいとおっしゃっていました。私も状況が詳しくわかればどの辺りだったか判るかもしれないのにと思います。 そんなこんなで、建築の歴史には縁のなかった私が、この頃少し勉強したいと思うようになりました。辰野作品の唐津小学校が解体されたのを何十年もたった今ごろ口惜しがったり、その唐津小学校を辰野博士のもとで建てた棟梁が、その3年後に高取邸を建てた同じ人であったのを「高取邸を考える会」のほうで発見したときの興奮!
日本中に建築に関わる人は何百万人といるでしょう。その方たちが建築の温故知新のために唐津を訪れてくださって、辰野金吾監修、田中実設計の旧唐津銀行や、曽禰達蔵の三菱合資会社の洋館、和風建築の旧高取家住宅などを見て回ってくださって、お昼は登録文化財の「竹屋」でうなぎを食べ(とってもおいしいです)、夜は大正初めの建築である洋々閣に泊まってくださると、私としてはとってもうれしいですよ。他にもまだ、大島邸とか、M邸とか、うなるような建物が唐津にはあるのです。綿屋旅館の大屋根の棟瓦など、感激ものです。 さて、これらの大建築家が唐津から出たのを、偶然だと思われますか? いいえ、これは歴史の必然だったのです。 そのキーワードは、「高橋是清(たかはしこれきよ)」。 高橋是清は、ご存じのように、昭和11年のニ・ニ六事件で若い将校たちから惨殺された政治家ですが、日銀総裁や大蔵大臣、総理大臣だった人です。このかたがいなかったら、はたして、辰野金吾は、曾禰達蔵は、辰野金吾、曾禰達蔵たり得たでしょうか。
高橋是清が明治4年に唐津に来るいきさつは「高橋是清自伝」に詳しく書いてあるのですが、まあ、すごいひとだったと思います。肥前唐津藩主小笠原家が明治になって廃藩置県、さあこれからの唐津をどうしたらよいかと模索し、ともかくも教育だろう、それも英学だということで、アメリカ帰りの高橋是清を高額の給料で招くのですが、そのとき是清、弱冠17才。昔の人って、すごかったのですね。すでにアメリカを放浪?して、何かの間違いから奴隷にまでなって逃げ帰っていたのですが、東京での生活は無頼そのもの。たったの17才で東(あづま)家という芸者屋に抱え妓までいて、無類の大酒のみ。その人が、東太郎と名乗って赴任するのですから、今ならたちまち大騒動のスキャンダルでしょうね。 ところが唐津の人達は道を掃き清めて大勢でお轎(かご)を出迎えたようです。東先生は着任早々他の先生と飲み比べをして名を上げます。最初大名小路にあった英学塾、耐恒寮(たいこうりょう)は、のちに小笠原家のお城の屋敷に移り、そこに住みこんだ東先生、毎日毎日3升酒です。 結局この英学塾はまつりごとの不安定な中で短命におわります。東太郎先生は一年三ヶ月の唐津での教師生活を終えて明治5年9月に東京へ呼び戻されました。けれども東先生が唐津の青年に吹きこんだものは、英語だけではなっかたのです。新しい息吹、世界を見る視野、自由な発想、開明的な思想....などなど。 辰野金吾に関しては、詳しい方がいっぱいいらして、私が知ったふりもできないのですけれども、詳しくない方のために少しだけ書かせていただきます。 1854年(安政元年)唐津藩士姫松倉右衛門の二男として生まれ、叔父の辰野宗安の養子となり、明治4年、耐恒寮が出来たときに入門して東太郎に英語を学びます。同期に曾禰達蔵がいます。耐恒寮がなくなったあと、二人は上京します。そして、高橋是清となった東先生に示唆されて工学寮に入学、明治政府がイギリスから招聘したジョサイア・コンドルに建築を学びます。そのあと、工部大学校造家学科に入学し、その第1期卒業生となるのです。その第1期生は4人しかいないので、4人のうちの2人が唐津出身ということであれば、日本の近代建築の昧爽はまさしく、高橋是清の唐津着任から始まったといえるでしょう。
辰野はトップで卒業後ロンドン大学に留学を命じられ明治12年26才から明治16年30才まで、ロンドン、フランス、イタリアで学んで帰国、その後工部省に入り工科大学教授となり、日本建築界の指導者となります。工科大学校は東大建築科の前身で、辰野は36才で東京帝国大学工科大学学長になりました。 そして、日本銀行本店、東京駅など、内地外地に多くの建物を造ったことは、あまりにも有名です。 故郷唐津には、唐津小学校、監修として唐津銀行、佐賀県内に武雄温泉の浴場と楼門があります。 日本銀行の建築に着手したときは、大蔵省にいた高橋是清がその事業の事務官として、辰野の下で働いたのだそうです。運命の糸はこうやってからみあうのですね。
高橋是清と辰野金吾は、師弟だったとはいえ、生まれ年も同じ安政元年、曾禰は1才年長でした。 亡くなったのは辰野が先で、大正8年65才でした。高橋は82才で、暗殺されました。曾禰は昭和12年84才で亡くなりました。 今、耐恒寮のあとは、佐賀県立唐津東高校となっています。私の母校です。昔をしのぶよすがとして、当時の門が保存されています。ここから星雲の志を抱いて広い世界に飛び出して行った人々を、この門は覚えているでしょうか。 *註 唐津東高校は移転しました。この門も一緒に新しい学校に移設されています。 |
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