このページは、旅館 洋々閣のホームページの一部です。お役に立てばうれしいです。 updated:July 1, 2001 | |||||||||
RIKI HOUSE について 店主 一力千恵 |
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RIKI HOUSEの紹介に先立ち、まず始めに、佐賀新聞の記事を一部引用します。 (2001年3月25日 引用諒解済み) 小説家の中上健次と唐津市の一力干城(たてき)。二人は60年代後半、新宿のジャズ喫茶「ジャズヴィレッジ」をたまり場にしていた。学生運動が沸き上がり、アングラ演劇やヌーベルバーグ映画が登場、時代に新しい波が起こるころだった。 中上は十八歳で和歌山県新宮から上京。初めてジャズに触れ、のめり込んだ。ジャズ喫茶に通い詰め、退屈しのぎに博打(ばくち)やけんかに明け暮れる。生き急ぐような圧縮された日々を、仲間とよじれあうように過ごした。 小説家中上健次にとっては、かけがえのない時だったという。「社会のクズみたいな生活が、僕を表現者として立たせてくれた。ものを考える時には、そこに行き当たる」と後に語っている。 中上と一力が新宿で交わったのは一年ほど。一力は故郷唐津に帰ってしまった。映画監督を目指したが、ロケ先の交通事故で内臓をこわした。体に無理がきかなくなり、失意の帰郷だった。 夢を失い、しばらく自暴自棄になる。睡眠薬と暴走を繰り返す。そんな時に妻となる千恵さんと出会い、希望を見つけた。結婚して始めた喫茶店「リキハウス」は、唐津の若者のたまり場に。ミュージシャンを目指す地元や県外の若者で「ジャズヴィレッジ」のような活気に満ちたという。果たせなかった夢は、地元の若い世代に託されていく。 90年、一力はがんに侵され、四十六歳で死去する。 それから3ヵ月後、中上は一力の友人であるブルース歌手・新井英一と「リキハウス」に駆け付けた。そこで行われたトークライブ。中上は「初めて唐津に来た。リキ(=一力の愛称)が生きているときに来たかった」と、一力との思いでを語り始め、最後に声を詰まらせながらこう言った。 「リキが死んだと聞いて... おそらく、自分の青春も終わったんでしょう」 写真:新宿時代、「ジャズヴィレッジ」での一力。「みんないっぱしにカッコつけてたが、、リキは歩き方から違った。おしゃれだし、味があった」と中上は言っている。 夫、一力干城(たてき)は、自分が果たせなかった夢を地元の若者達を育てる事で生き甲斐を見つけました。 「唐津の若者に安住の地を」をスローガンに、ロックバンドやフォークを唄う若者を育てました。噂を聞いて福岡、長崎周辺からも、やる気のあるバンドマン達がリキを慕って集まって来ました。 熱い気持ちで真剣に付き合ってくれる、そんな大人に出会えた事が嬉しく、頼りになる兄貴のような存在となっていました。 リキは魅力的でカッコ良かったが、何より“人を引きつけるオーラ”がありました。 リキのような大人になりたいと憧れる若者達が沢山現れたのもうなずけます。
店経営の傍ら、吉田拓郎、矢沢永吉、中島みゆき、長淵剛らを唐津に呼び、地元バンドにはライブの場を提供してきましたが、残念ながら90年に病没しました。
リキに育てられた教え子たちは遺志を受け継ぎ活動を続けています。 98年には店をJR西唐津駅横に移転、店名も「レストラン RIKI HOUSE」(旧 ピザハウス RIKI)と改め、貸しスタジオも併設。ライブハウスの草分けとして活動も広がっています。どうぞ、お出かけください。
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