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唐津市は、市民レベルでの日韓交流のさかんなところです。 特に麗水市とは、友人、兄弟として、長いお付き合いがあります。 今回は、麗水(ヨースー)市の文貞寅(ムンジョンイン)先生に執筆していただきました。 お忙しい中に、快くお引き受け下さって玉稿を賜りました文先生に厚く御礼を申し上げます。 なお、文先生の文章の香りをそのまま伝えたいので、殆ど原文のままの表記にしたがいました。 |
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国際交流 ねぐら(塒) 文貞寅 1971年の晩秋、野菊花合唱團事業の納まりと、唐津市と麗水市の姉妹都市關係を申し込む 麗水市長 李相魯様の書翰を持って 夢の中で畫いた 虹の松原を通った。 初めての日本訪問、文禄慶長の役 以来から 縁の深い 唐津だという 好氣心を抱いて 先輩2人と 一緒に訪問した。 韓日國交が 正當化 出来る前の事ですし、韓國人が 海外を旅行する時には 100弗しかもっていかれなかったので 唐津JC會員たちの配慮で10萬円ずつ得て 宿泊も 洋洋閣 大河内明彦先生の世話を得るしかなかった都合だった。 初めてだった 日本訪問の歸り路に、 私は日本語を習って再び来るという決心をして 3年間 熱心に にほんごを 勉強して 在釜山日本領事館で 試驗をみた。 それから 唐津訪問 20回、大河内先生の お蔭様で 普通には觸れがたい 意味の深い日本文化、民俗、飲食、地方廻りに、唐津焼の中里隆先生を始め 市役所、税關、警察署、消防署、文聯 等 方方との觸れ合いに恵まれた。 いまから17−8年前の或る夜 おそく、大河内先生は 私の部屋にきて “文さん! 他人が見ていない處で 自分自身が文化人だと自慢できる人になるのは 難しい事でしょう” といわれた言葉を 今でも 忘れられないんです。 その 影響で 後日 私が 無報酬職 文化院長として13年の歳月を流したかもしれない。 歴史的、政治的に難しい 條件下での30年の交流が成功したのは 唐津と麗水、唐津市民と麗水市民の間に 洋洋閣という塒と大河内先生という奉仕者があったからだと思っている。 勿論 私も大河内先生に似たのか 世上事を知らない阿ほうになって、晩秋の寒い氣節になったら ‘呼子’の烏賊刺身に あったかい日本酒を飲みながら唐津の方方と話す雰圍気が懐かしくて堪らないほど、唐津と洋々閣はこの世にのこっている 心の故郷になっている。 |
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文貞寅先生へのメール | ||||
文先生の自作の亀甲船を洋々閣の池に進水させて見ました。幡の文字は「全羅左水營順天龜船」 | ||||
文先生の文化活動に興味のあるかたは、【文貞寅之HOMEPAGE】をごらんください。 | ||||