このページは高取邸の修復に際して文化財建造物保存技術協会から現場に赴任された太田英一氏に連載していただくエッセイです。随時更新していきたいと思っています。




高取の記憶
太田英一 (文化財建造物保存技術協会)


工事見学会にて床下の説明をする)
その1 (平成19年6月記)

 西暦2007年4月21日、旧高取家住宅のオープンの日、午前中の式典に続き午後から開かれた能の公演後、取り外していた建具や畳等を元に戻し片付けが終了した時、関係者の皆が移動を始めた正にその時、能舞台で足を止め「老松」を顧みたその一瞬、私の胸に去来したものはいったい何であったのか。

 私が「高取邸」に出会ったのは約10年前、「十年一昔」という言葉はよく耳にしますが、その時の私は、まさかこれ程までに「高取邸」に深く関わることになろうとは想像さえしていなかったのです。

 これからお話しする物語は、その後、この「高取邸」に足を踏み入れ、様々な人々に支えられながら、何とか自分の思い描く小さな希望や夢を、「高取邸」に関わった様々な分野の方々を巻き添えにしながら叶えていこうとあがき続けたとてもちっぽけな人間の、たわいもないお話です。難しいことをお話する訳ではありませんし、学術的な記録でもありません。何よりも私はそうしたものも持ち合わせてはいません。目を閉じればつい昨日のことのように思える色々な出来事を、何故か随分昔のように感じながらお話していくだけです。したがって、お話しする内容も時系列にはほど遠く、思い出した順に、とだけしかお約束できません。そのことをご了承の上、お時間とお気持ちの許す限りお付き合い下さればと思います。

 とはいいますものの、やはり第1回は、「高取邸」との出会いからお話しましょう。もっとも、人生の伴侶に出会ったときの様な華やかなお話ではなく、もっと人間くさいお話ですが。

 曖昧な記憶を掘り起こしつつ最初に「高取邸」を訪れたのは、平成9年、西暦1997年の夏だったのか秋口だったのか。兎にも角にも、建物調査の基本となる図面、平面図の実測及びCAD化が最初の仕事でした。私たちの仕事は一般の設計事務所と異なり、真っ新な敷地に新築する訳ではありません。既に敷地に建てられている建物を図面として作図する事から作業が始まります。もちろん、この「高取邸」については、それまでに行われた学術調査によって作成された図面があったのですが、当時は今ほどCADが一般的ではなく手書きで描かれたものでした。時代の流れとは恐ろしいものです。今現在は図面といえばCADが当たり前と言われているのですから。私が文化財修理に飛び込んだ頃は、まだ、手書き図面が当たり前のように使用されていたのです。話は戻りますが、建っている建物の実測そのものは特に優れた技術を要するものではなく、下書きをフリーハンドで描くため多少の絵心は必要かも知れませんが、限られた時間内に如何に正確に寸法を追えるかに尽きるのです。技術的に難しいのは実測した寸法を整理することですが、そうした話はもっと真面目な技術者の方にでも話を伺って頂けたらと思います。

 この様な出会いだけならば特に面白い話でもなく、何もわざわざ書き連ねる事ではないのですが、今思い出しただけでも身の毛がよだつような事件は、その実測調査の最中に起こったのでした。

 人は誰しも何かしらおかしな性癖があるもので、私の場合は学生時代から実測調査に行った建物のお手洗いを全て制覇する、もちろん使用可能なものだけですが、という変な野望があり、当然のことならが「高取邸」でも当時使用可能なお手洗いは全て制覇させて頂きました。恐らく、所有者である高取家の方々でも成し遂げたことはないと思われますし、修理工事が完了し、使用可能なお手洗いが僅か2箇所になった現在、この「高取邸」での偉業を成し遂げたのは私が最初で最後かも知れません。

 その様にして野望を果たしつつ1階、2階の平面を実測している時は何の問題も無く平穏だったのです。ところが何度目かの実測調査時にそれは起こりました。あちらこちらで用を足していたことに建物を建てられた高取伊好氏の堪忍袋の緒がとうとう切れたのでしょう。あろう事か1階床下に潜り込んでの調査の時に催してきたのです。それならば直ぐに1階に出てお手洗いに行けばいいと言われるかも知れませんが、一度でも「高取邸」を訪れたことのある方はご存じでしょう。この建物、面積が1,500uもあり、建物が建てられた時期の違い、それに伴う構造の違い、後の改造など様々な理由から床下は迷路さながらで、実測調査は困難を極めました。地面は砂地、最も床下の広いところは大広間棟能舞台下でここだけは辛うじてしゃがみ込んで進めるものの、それ以外は「ほふく前進」、最も狭い居室棟の改造部分では配管などが複雑に納まっていることもあり、当時の私の体型で体をひねりながらようやく通れる程だったのです。

 折悪く、床下への突入口を1箇所しか開けていなかったということが更に事態を悪化させました。遠く離れた位置に突入口の明かりが見えるものの、そこまでの帰り道が分からなくなったのです。冷静な時ならば戻れたのでしょうが、今にも溢れそうな状態の時に、そうした的確な判断が出来るわけはありません。身動き取れない状態であることをいいことに、それまで大人しくしていた猫が数匹、私の廻りを徘徊し始め、更に私の不安は倍増し危うく閉所恐怖症に陥るところだったのでした。最悪の場合は所有者である高取家の方々には申し訳ないが、床下にて用を足すしかないと覚悟を決めたとき、きっと高取伊好氏もそれは嫌だと思われたのでしょう。私に天の声を与えてくれたのでした。何処にいるのかと私を捜す声がしたのです。所有者の方がお茶を入れてくれたので休憩にしようと上司が床下に声を掛けていたのでした。私は必死になって居場所を伝え、畳を外してもらい、猫に負けじと床下から飛び出しお手洗いに駆け込んだのでした。

 それ以来、他の部屋の床下に入るときは、突入口と脱出口を確保してルートを確認し、更には緊急時の脱出口まで確保する程の慎重さをもって実測を進めたのでした。

 では、そうした一件以来、私の性癖は改善されたのか。そこはやはり人間です。やはり今でも実測調査に行った先々で、性懲りもなく確実にお手洗いを制覇し続けているのでした。

 私と「高取邸」とのある意味で人間くさい最初の出会いはこうして果たされたのでした。

 第2回目となる「高取邸」への来訪は、同じ年の年度末、当時の文化課係長に、この時期の降雪は何十年振りだと言われたとても寒い日でした。実は私と「雪」との関係も中々奥深く、南国九州で育ちながらあちらこちらで何年振りのとか何十年振りの、といわれる雪を、これまた南国九州で降らせている、一部中国地方にも私が居たため余波がありましたが、そうした経歴を有しているのでした。概ね引っ越しなどの大移動若しくは突然の来訪時に降雪を招く傾向にあり、記憶に残っている限りでも小学校の転校時、中学校の転校時、大学時代にもちらほらと、そして修理技術者となった最初の年の年度末、もう流石にこの時期には無いだろうと高を括っていた時に、それも2週続けて私が来訪した時だけ雪が降ったのでした。思い返せば、修理担当者として「高取邸」に赴任した年にも季節外れの、それも唐津市内では何十年振りかの大雪に見舞われ現場が大混乱した気が。修理関係者の皆さん。きっと犯人は私です。確か私の記憶に間違いがなければ、私と雪との関係についてご説明させて頂いたはずなのですが。もし記憶違いであればこの場をお借りしてお詫び申し上げます。

 修理担当者として「高取邸」に赴任するまでに、実は第3回目となる「高取邸」への来訪がありました。主屋以外の附属棟を実測調査するためだったのですが、その時は私を含めて九州内の現場から3名が応援に駆けつけました。

 この時の調査まで、実は所有者である高取家の方々のお顔が僅かにしか記憶に残っていませんでした。直接的な対応は唐津市の方がなされ、打ち合わせは私の上司が行っており、お話しする機会が余り無かったためと思います。したがって、私自身が窓口となってお話しする機会を得られたこの第3回目の調査が、私の中で所有者である高取家の方々という少し間を取った言い方から高取様と呼べるようになった、非常に貴重な調査でもありました。この時の調査で当時、既に建物を唐津市へ寄贈され、新居へと移られた高取様に無理をいってお願いし、土蔵の実測及び写真撮影の際に解錠及び立ち会いを依頼したのでした。その際、日がな一日土蔵内部を駆け回る私たちに不思議そうな目を向けられ、時折、質問をされては受け答えをする私の話にこれまた不思議そうに首を傾けておられた記憶が残っています。こうしたわけで、私の中での高取様の記憶は、この時の出会いがもっとも強く、また、ここから始まったと言えます。

 それから数年して「高取邸」へ赴任し、高取様との再会を果たし、修理中に幾度と無く現場にお越し頂き、時には高取様の事務所にまで押し掛けて打ち合わせをさせて頂けたのは、私の図々しさに対して非常に寛容に対応して頂いた高取様のお人柄があったからこそと今更ながら感謝しています。

 第1回目は私と「高取邸」そして高取様との出会いをお話しさせて頂きました。締めくくるに当たり、高取様とのお話の中で私が最も記憶に残る会話の一部をご紹介させて頂きたいと思います。この言葉は修理後の今でも高取様が常々気に掛けておられることであり、本来ならば、その高取様とのお話の席でご返答すべきことだったと後悔しています。あの時の私にもう少しの勇気があればお伝えすることができたはずの言葉をここに記させて頂き、暫し筆を休ませて頂きます。

 「私はこれまで、あの建物をどうにかして残したい、それが私の努めだと想い続けていました。しかし、想いとは裏腹に歳も取りそれも叶わなくなり、唐津市へ寄贈させて頂いたものの、本当にそれで良かったのか、或いは、非常にご迷惑をお掛けしているのではと何時も気に病んでいました。そして修理のためにと何度も私のような人付き合いの苦手なものに会うためにご足労願い、嫌な思いをさせているのではと心配しています。」

 「私にとってはそうではありません。高取様が居られるからこそ今の「高取邸」があり、修理を進める中で、どれだけ高取様のお話が貴重な情報であるか。古い建物では所有者のお話を伺うことが出来ないものもあるなかで、建物にまつわるお話を伺えるだけでも非常に重要であり、「高取邸」にとってどれだけ幸せか計り知れません」

                           続く

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